【全文公開】ある朝、列車事故に遭い全身10数か所を骨折したOLが、再び歩き出すまでの話(重度のうつ病が襲いかかるまでの日々)
浅野千通子(あさのちづこ)といいます。
現在、いのちの講演家、感情セラピスト、ピラティス講師として活動しています。
14年程前に京都大学大学院名誉教授の山口栄一先生と共に、書籍を出版させていただきました。
この度、書籍の一部である「宮崎千通子の手記」をNOTEにて全文公開させていただくことになりました。
主に私が担当したこの章では、繊維メーカーに勤めるOLとして何不自由なく暮らしていた日々から一転、死の淵に立たされた瞬間からの出来事と当時感じたことをありのままに綴っています。
事故の朝、3度死に直面した際に感じていたこと、事故後の不安や葛藤、また日常の小さな幸せ。事故に遭っていなければ、どれも感じることさえなかったことかもれしません。
ですので生々しい表現もところどころに見られます。ちょっとでも読みたくないと思われた方はこのままページを閉じてくださいね。
ただ、読んでくださった方からは「時に涙しながらもぷっと笑ったりもして、改めて自分の人生について考えるきっかけになった」というような感想をいただくことが多いです。
実はこの本を書き上げた直後、それまで見て見ぬふりをしてきた心の傷が、声をあげ、最後はダムが決壊するかの如く崩壊し、重度のうつ病とPTSDと診断されました。そして、その後約8年間本当の苦しみを味わうことになります。
この書籍は、当時身体と心のつながりなど何も知らななかった私が、なんとか失われた肉体の自由を取り戻そうと、必死になって自分の身体の傷と向き合い続け、少しずつ歩けるようになり、「ようやく元の生活に戻れる!」と期待を膨らませていた頃に、一気に書き上げたものです。
読み進める中で、前向きに生きているように見える一方で、なぜ私がその後重度のうつ症状を呈するまでに、どんぞこまで落ちてしまったかということが、垣間見えるかもしれません。
さて、この手記は私がゼロから書いたものではなく、編著者の山口先生と共に書き上げたものになります。
山口先生が、アロマセラピストの野田千佳子さんと共に、私にインタビューをしてくださり、それを基に山口先生が文章化したものを、私が読み直した上で、一から全てを描写し文章化するというプロセスをへて出来上がったのがこの手記なのです。
また、手記の中で何度も山口先生が、専門用語について解説したり、私の状況を補足したりしてくださっています。
私一人では、到底書きあげることはおろか、書き始めることすらなかった文章を、お二人のお力添えによって、当時なんとか書き上げることができました。
事故から16年経った今、生と死の間で学んできたことを、言葉にして伝えるということをセラピーやピラティス、講演活動を通して行なっていますが
そのおおもとのきっかけを与えてくださったのは、間違いなく山口栄一先生と、先生とのご縁を繋いでくださった野田千佳子さんだと思っています。
お二人にこの場を借りて改めて感謝申し上げます。お二人との出逢いが、私の人生をさらに豊かなものにしてくれました。
それでは本文をお楽しみください。さらっと数十分で読めるボリュームです。
音声で聴くのもおススメです!私はいつも、iPhoneの読み上げ機能を使っています。
JR福知山線事故の本質
~企業の社会的責任を科学から捉える ~
山口 栄一 編著
ー宮崎千通子の手記ー
※よりわかりやすく伝える為に、少し言葉を変えている部分がいくつかあります。
1 悲劇の始まり
2005年4月25日は、雲ひとつない日だった。
新入社員として一足先に出勤した妹のちえちゃんを見送ったあと、私はちゃっかり彼女のジーパンとジャケットを拝借し、冬のあいだ仕舞っていたお気に入りのピンヒールのサンダルを履いてバス停へ向かった。
そのころ阪急バスはよく遅れていた。その日も数分遅れでようやく八時十八分発の阪急バスに乗り込んだ。
普段なら、8時35分には西宮名塩駅に到着するのに、その日は渋滞も重なって、到着したのは45分を過ぎていた。
ホームへ向かう階段でちえちゃんからメールが来ていることに気がついた。
「月曜早々2回もこけそうになっちゃってんけど~。あー恥ずかし。」
私は、すぐに返信をした。
8 時 45 分 「えー! おしゃれに夢中になってるからやん」
次に会社の友人の麻衣子に、ホワイトボードに出社予定時間を書いてもらおうと思い、メールをした。
8 時 46 分 「 渋滞やって会社遅れそうやねん。申し訳ないけど 9 時 45 分って書いてもらえるー?」
その後、私はボス(仲良しの上司)にメールをした。
8 時 47 分 「 おはよう。バス渋滞でまた遅れてん。だから遅刻するー。」
すぐにボスから返事が来た。
8 時 49 分 「 OK! 私も午前中取引先ですのでよろしく~(^_-)」
でも、まだ電車は来ない。トイレへ行って鏡を見る。
(髪の毛を少し切り過ぎたかな? ちえちゃんのジーパンは、やっぱりちょっと大きいわ。あ、電車が来た! )
私は、ホームへの階段を駆け下りた。
ホームには多くの人があふれている。やってきた電車は、いつも乗っている東西線方面行きではなく東海道線大阪行き。
私は8時53分発大阪行きの電車の先頭車両に乗り込んだ。
電車はそのまま宝塚駅へ。
そして、宝塚駅でホームの向かいに停車中の9時3分発の宝塚始発(東西線経由)同志社行き快速電車に乗り換えた。
この日私が乗った大阪行きの電車の車両は、東西線の先頭車両よりももっと先で停車した。
そのため、私はホームを東西線の一両目に向かってフラフラと歩き、一両目の先頭のドアから乗り込んだ。
私は、普段は三両目にある女性専用車両の一番四両目よりに乗っていた。
でも、その日はすでに一両目から全部座席がうまっていた。
一両目を過ぎて、二両目に渡ると、真ん中あたりにポツリと席が空いていた。
それで、三両目をちらりと見ると、ずいぶん混んでいるようだ。
(ここで、いっか。どうせ遅刻やもん。)
私は、一度も乗ったことのない二両目中央付近、進行方向に向かって左側の七人掛けの座席の真ん中辺りに座った。
それからわずか二十分後には、マンションの柱にへばりつくようにして折れ曲がってしまうなんて、当然知る由もなかった。
席に着くと、ipodと麻衣子から借りた「白夜行」を取り出した。
そこからずっと音楽を聴きながら本を読んでいた。
(それにしてもいい天気。やっと春らしくなってきた。電車に揺られて気持ちがいいな)
と思った瞬間、大きな揺れが。
JRは本当に運転が荒い。そして伊丹駅に到着。今度は電車が逆走し始めた。
(あ、麻衣子からメールがきた)
9 時 17 分「 は~い」
伊丹駅で横のおじさんが降りて、私の横に空席が。そこに誰か座ったかな。
通勤ラッシュ終わりかけのこの時間帯は、座席はほぼ埋まっているけれどつり革はそれほど埋まっていなくて、私の前の景色が見えていた。
相変わらず、空は青かった。
途中駅には止まらずに、電車はグングン次の尼崎駅へ向かって進んでいく。
急に電車がガタガタと音を立てて揺れだした。目の前の青空が一気にグレーの世界へと変わった。
大嵐の日みたいにグレーで、窓に石か何かがいっぱい飛んできてバチバチと音を立てた。
窓の景色はさらに灰色を増し、その時電車の速度は信じられないくらい速く感じて、次の瞬間レールからガタンとずれる感覚があった。
それでも電車のスピードは変わらなくて、まるで違う世界に突入していくような感じ。
その時私は生まれて初めて、自分がこのまま死んでいくんだと直感的に感じた。
私、このまま死ぬんや。なんで? 私の人生ってこんなにあっけなかったの?
私の人生って、たったの26年?
でも、どうせ死ぬなら最後に悔やみながら死にたくない。
いや、よかったんや。私の人生26年大満足! 楽しいこといっぱいあったやん。
いやや! でもやっぱり死にたくないよ。もっとしたいことあったもん。
ううん、楽しい人生やったよ。いやや、でも死にたくないよ。いや、これでいい。
死ぬことを認めたくない自分と、これまでの人生を悔やむ自分と
どうせ死ぬならこれまでの人生に満足して死にたいと思う自分
死にたくないという自分の想いが、頭の中でものすごい早さで駆け巡った。
そのとたん、幼かったころの記憶や学校時代の思い出、そして中国で暮らした一年間の思い出が、あふれるように蘇えってきた。
次の瞬間、身体が頭から後ろに引っ張られるように、宙に飛び上がる感覚があって
その前に私は目をつむってそのまま意識を失った。
まるで意識を「ぱっ」と自分で切るみたいに。
幼いころの記憶
幼いころの記憶。それは姉と妹と過ごした日々。
私が4歳のとき、妹のちえちゃんが生まれてほどなく当時住んでいた宝塚の家を引っ越すことになった。
3つ上の姉が、私にこう提案した。
「千通子ちゃん、宝物全部お庭に埋めよ! タイムカプセルやで!」
「お姉さん、めっちゃいい、いいアイデアやね! すごい!」
私も姉も、ドキドキしながら当時一番大切にしていた着せ替え人形や、なめ猫の塗り絵や、自分宛の手紙などをお豆腐の入れ物に入れて、サランラップでぐるぐる巻きにし
「これだけ包めば雨が降っても大丈夫やろ」と言いながら、裏庭の片隅を大事に掘って、そこに埋めた。
「千通子ちゃん、庭の端から前に三歩、左に四歩やで。」
「お姉さん、やっぱり賢いなぁ。」
歳とともに歩幅が変わることなんて、二人とも思いつきもせず・・・。
その後、今住んでいる西宮に引っ越してから五年ほど経って、姉と二人でスコップを持って電車に乗り、その家に行ってみた。
しっかり者の姉は、チャイムを押して出てきたおばさんに事情を話した。
それでさっそく庭に回ってみたら、なんとその庭はコンクリートで固められている。
姉と顔を見合わせて、二人でその場でうなだれた。
「うそやん、千通子ちゃん・・・。」
「うそやわ、お姉さん・・・。」
私の姉は昔から空手をやっていたし、とにかく強くてしっかり者だった。
私がいじめられていると、すぐに飛んできていじめっ子たちを蹴散らしてくれる。
気が強くてしっかり者の姉と泣き虫な私。そして、私より四つ下の妹のちえちゃん。
末っ子ゆえに、思い通りにならないとすぐに拗ねて泣き出すちえちゃん。
私は、ちえちゃんを喜ばせるために毎日必死で遊びを考えた。
歌を作ったり、二人の言語を作ったり。
今でも、二人で作詞作曲した「大きな牧場」は、3番まで完璧に熱唱できる。
小学校に入った私は、かなり活発な女の子になっていた。走ることが得意で、父とよくダッシュの練習やマラソンの練習をしていた。
一番の記録は、小学校四年生の時の男女混合マラソン大会。学年では一三位で、女子の中では二位になったのだ。
「お父さん、私くやしい。来年は一等賞取りたいねん。」
「よし、ちーこ。明日から特訓するぞ。」
「はい、お父さん。よろしくお願いします。」
父との練習はさらにヒートアップしたにもかかわらず、結局、五年生の時は盲腸で手術して出られず、六年生の時も高熱で出られず。
思春期
中学校は自宅から45分ほどの雲雀丘花屋敷駅(阪急宝塚線)にある、中高一貫の共学校に入って高校を卒業するまでの六年間を過ごした。
付属の幼稚園や小学校からあがってきている子もけっこう多く、みんな家族のように仲良しだった。
誰かに好きな先輩ができると、みんなでその先輩を必死になって追いかける。
「ちょっと、あんたの好きな先輩が新食堂でうどん食べてたで。」
「うそ~。かっこいい! 何うどん食べてたん?」
「ちょっと、あんたの好きな先輩のサインをもらってきたで!」
「ほんまにありがとう! 先輩の字、めっちゃかっこいいやん!」
私たちが一番興奮したのは、間違いなく体育祭の「エッサッサー」。
エッサッサー。
運動会のときに長い鉢巻をなびかせた高校男子全員が、上半身裸、短パン一枚になって、足を前後に開き、ゆっくりと腕を大きく振りながら「エッサッサー」と叫び続ける。
「月明かりの夜に獅子が月に向かって咆哮するさまを表現したもの」だそうで、中学生の私たちには、かなり刺激的だった。
私たちはただただ三分間、「エッサッサー」と吼えるあこがれの先輩の裸の姿をうっとりしながら見ていた。
頭につける長い鉢巻は、女子が自分の名前の刺繍入りで作り、それを好きな男子に渡す。
私たちが一週間かけて刺繍を仕上げた鉢巻をしてくれていれば、友だち同士泣いて喜ぶ。
一方、ちがう刺繍のはいった鉢巻をしていれば、みんなで肩を寄せ合いながら、悲しみを分かち合う。
思春期真っ只中の六年間の付き合いは、想像以上に濃いものだった。今でも、中高の友だちはたとえどれだけ会っていなくても特別な存在。
ありかをもとめて
何となく心理学に興味があった私は、大学は神戸の岡本にある女子大の文学部人間関係学科に入学した。
一回生、二回生の時は、「これぞ女子大!」といった、きらびやかな世界に完全にのまれて遊びほうけ、合コン、飲み会、彼氏とのデートとはじける毎日。そして三回生のある日、我に帰る。
「あかん。私、何やってんねん。このままじゃ、何のために大学行ったか、わからへんまま、卒業することになる!」
そこから私は放課後はバイトに励み、中国への留学資金を貯める。大学の授業が終わると、神戸大丸の屋上にあるガーデンレストランへ行き、夜までウェイトレス。
気さくなおじさんたちや同世代の友だちに囲まれ、楽しみながらあっという間に留学資金が貯まっていった。
貯金が100万円になった時、中国行きについて父と母に、熱いわりには他人頼みの想いを伝える。
「お父さん、お母さん。私、日本から出たことすらないけど、中国に一年行ってきます! 中国でいっぱい勉強したい! いろんなものを見たい! いろんな人に会ってみたい! 100万円貯めました! すみませんけど、足りない分は出してください!」
そう言って、おそるおそる顔をあげると、父も母も、嬉しそうにこう言った。
「いいやん。行ってきなさい。」
父も母も、昔から私がしたいことは何でもさせてくれた。本当は人一倍心配しているくせに、いつも子供たちの気持ちを尊重してくれた。
一九九九年の夏、私は大学を一年休学し、スーツケースにMDラジカセを背負って、いざ中国へ。
中国遼寧省大連市にある、東北財経大学漢語国際文化学院。
見る人、聞く声、空の色、車の音、看板の文字、全部が全部、何かがちがう。何かがちがう!
すごいパワーを感じる。
「なんや、ここは? なんやこれは?」
日本とはあきらかにちがう、活気。私は一気に中国の魅力に引き込まれた。
何よりの楽しみは本場の中華料理。
「おいしい、おいしすぎる!」
私は、みるみるうちに10キロ太り、ある日、日本から持っていったジーパンをはこうとしたら、縦に引きちぎれた。それでも、おかまいなし。
「中国最高!」
平日は勉強をして、週末はみんなで浴びるようにビールを飲む。
おいしいのはなんと言っても地元のビール、その名も「ダーリエンガンピー」。
「オヨヨ~イ!」
ロシア人のコスティアの乾杯の音頭。
エチオピア人のイエタ、ロシアの美人姉妹アイラとイレーナが踊りだす。
日本人の、アヤ、トモコ、ヒロキ、そして私も負けていられない。普段はなかなか出てこない中国語も酔っ払ったらどんどん流暢になっていくから不思議。
大金をはたいて購入した一眼レフで撮った写真は、どれもベロベロの私たち。
帰国が近づいてきたある日、私はユーゴスラビア人のグリゴと一緒に、星海公園へ出かけた。海の上55メートルの台から海に向かって飛び降りるというバンジー・ジャンプを飛ぶために。
帰る前に絶対跳ぼうと約束していたものの、台の上から見る海面は真っ黒で果てしなく遠い。試しに持っていた紙を少しちぎって落としてみた。
ヒラヒラと落ちていく紙は、どんどん黒い海へ向かって吸い込まれていく。それでもなかなか消えていかない。まだまだ落ちていく。そしてようやく海に消えていった。
「ど、どうしよう。怖すぎる・・・でも今さら、後には引けない。えぇい! 日本人の意地を見せてやる!」
半ば投げやりになった私は、覚悟を決めるとなんの躊躇もなく両手を広げてまっさかさまに飛び降りた。
「ひ、ひ、ひ、ひぇ~。」
私もグリゴもなんとか、成功。
跳び終った後、二人で涙を堪えてこう言った。
「モウ、イッショウ、トバヘン・・・。」
「ボクモ。」
あっという間に一年が経ち、帰国日まであと一週間という時、私は一人旅をしようと上 海へと飛んだ。
一人、寂しくホテルの窓から上海の夜景を眺めていると、とめどなく涙があふれてくる。
「私の大好きな中国、また帰ってくるからね。
私、30歳の時はきっとまたここにいるから。」
就職して東京に
中国から帰った私は、残りの一年半を真面目に過ごし、2002年春に晴れてジュエリーを扱う専門商社に就職した。
東京勤務となった私は、また家族と離れ東京へ。オフィスの場所は、大都会六本木。大自然で育った私には、寮のあった東北沢から乃木坂のたった15分の通勤ラッシュで、もうへとへと。
いつも朝から気がゆるんでいたらしく、二年の東京生活の中で二度も電車でこうささやかれた。
「お姉ちゃん、ズボンのチャック開いていますよ。」
一年が経過して、都での生活にもようやく慣れてきたころ、社長に突然呼び出された。
そして内容がよく理解できないまま、新規事業のメンバーに。
慣れない土地での飛び込み営業。一年経ってもまったく興味を持てないままのジュエリー。社長の高圧的なプレッシャー・・・・。
私は、とうとううつ状態に陥ってしまった。
金曜日、仕事が終わると月曜の朝までベッドからほとんど動けない日もある。
月曜から仕事に行くことを考えると吐き気がする。
身体中をじんましんが襲い、足も腕も背中もまっかっか。一番の重症患者は私だったと思う。
けれど、全員で七人くらいいたメンバーも相当ひどいものだった。
「今日は、Aさん病院で~す。」
「今日はBさん、検査です。」
「Cさんは、お薬をもらいに行きました。」
それでも会社を辞めるのが、いやだった。
今の環境から逃げるためだけに辞めたくなかった。自分の「やりたいこと」と「今の自分」。
全然ちがうことだけは分かるけれど、「やりたいこと」はまだ漠然としたまま。
けれど、新規事業のメンバーになって約一年が経過したころ、ついに私は会社を辞めることを決意した。
会社に辞めると伝えてから一カ月後、私は自由の身。
2004年4月、西宮にある実家に舞い戻った。
数カ月経った時、会社の友人から電話がかかってきた。
「ちづちゃん! ちづちゃんが辞めてから、みんなどんどん辞めているの! だからね、ちづちゃんのことはみんな『パイオニア』って呼んでるよ!」
私が、前の会社で残した唯一の功績。
夢が広がる予感
2004年5月に東京から帰ってしばらくして働き始めた東レでの毎日は、今までつらかった日々を一瞬で忘れるくらい、刺激的で楽しいものだった。
皆、前を向いて仕事をしているように見えた。
仲間も上司もお客さんもみんな面白くて優しい。
繊維も、貿易も、縫製も、これまでまったく知らなかったけれど、あちこちからいろんな手が伸びてきて、皆が助けてくれる。そして、中国の工場とやり取りするうちに、これまでなかなか使えず錆付きそうになっていた中国語もまた息を吹き返してきた。
仕事が終わると、ボスが呑みに連れて行ってくれる。ボスや仕事仲間の金光さんや黒ちゃんが熱く仕事の話をしているのを聞きながら、お酒を飲むのが大好きだった。
会社が終わると週に二回、中国語の通訳学校に通う。落ちこぼれの私は授業についていくだけで精一杯だったけれど、それでも授業は楽しかった。ようやく、自分で自分の時間を使えるようになった喜びがあった。
家に帰ると、毎日小学生のように、その日の出来事を家族に目を輝かせながら話した。
ちえちゃんは「はいはい、また出ましたー。千通子ちゃんの東レ自慢! 東レは楽しいね~。毎日スキップして会社行って、周りのみんなは優しくておもしろくて、本当に最高ですね~。は~い、よくわかりましたよ~。」
と欠伸をしながら、相槌を打ってくれた。
スキップ ー 本当にそう。
JR東西線の北新地駅で下りたあと、中之島にあるオフィスまで歩いて行くのが楽しくて仕方がなかった。
私は、自分の将来が青空のように広がっていくのを感じていた。
こうしてその日がやってきた。
2 がれきの中で
意識を取り戻す。ふっと、目が開いた。
世界が逆さまで、なんだか眩しい。電車に乗った時に見た空と同じ青い空が見えた。ギュイ~ンという異様な音と臭におったことのない強烈な異臭が鼻をつく。
私、生きてたんや・・・。
喜びは束の間。私は全身を何かに挟まれたまま宙に浮いているようだった。かろうじて右手の肘から先だけが自由だった。
今まで味わったことないくらい、身体がグチャグチャで、ボロボロだった。
声を出そうとしても、出てきた声は
「ヴォォォ・・・。」
上から、ガラスや土のようなものが、顔に降りかかり、それが口の中にいっぱい入っていて気持ちが悪い。
電車の異様なうなり声以外はシンとしていて、人の気配がまったくなかった。
(あ、生きてたのにこのまま死んじゃうんやん。いやや、死にたくない。)
もうろうとしていたけれど、意識はしっかりしていた。
(あと三時間くらいなら生きられる気がする。あと三時間のうちに誰か、誰か私を助けに来て。)
事故に遭った瞬間とは違い、今度は死が徐々に自分に迫ってきた。
(苦しいよ。今せっかく生きてるのに、このまま苦しみもがいて死んじゃうの。)
苦しみながら死を待つことが、そしてそれに何の抵抗もできないことが、どれほど恐ろしいか。
(今、私生きてるのに・・・)
ふと私の目の前に髪の毛の温かみを感じた。私の前に重なるようにして、男性が挟まっていた。次の瞬間、彼の身体が動き出して、ものすごい勢いで私の胸を締めつけてきた。
「やめてー! あんたが動いたら私が死ぬからー!」 必死で叫んだ。
(もう、限界。死ぬ。 もう、あかん。)
そう思った瞬間、彼の力がふっと抜けて、彼が先に死んだんだとわかった。
生まれて初めて自分のそばで人が死んでいった。
なのに、私は「あー、よかった。胸締め付けられないから助かったー」としか思えなかった。
どうかしてた、あの時の私。人の死に何も感じることができなかった。
ごめんね。苦しかったね。苦しいのは一緒なのに、自分のことばっかりでごめんね。
今でもあの時のことを思い出すと、胸が締め付けられる。
でも、あの時の私は何もしてあげられなかったし、何も思ってあげられなかった。
電車の中で助けを待つ
相変わらず、人の気配がなかった。その時近くで携帯の振動音を感じた。これに手が届けば、助けてもらえるかもしれない。
必死で右手を動かした。でも、何にも届かない。そのうち、振動が止まった。
ふと、目線を移すとマンションが見えて、そこに男の子が座っているのが見えた。
右手を力の限りふって叫んだ。
「助けてー! 助けてー! たす・・・け・・て・・・ぇ・・・・。」
自分の意思に反して、声はどんどん小さくなっていく。
でも、彼は私のさらに先をボーっと見ていて、私には見向きもしてくれない。
私はあと三時間叫べるように、人の気配がする時だけ叫ぶことにした。
さっきみたいに、力の限り叫んでいたらすぐに力尽きてしまう。
一度自分で脱出を試みた。でも、身体がしっかり挟まっていてびくとも動かない。
それに動こうとすると身体に強烈な痛みが襲う。やっぱり無理。
ボーッと考える。
(あー、なんで私、中国ばっかり行ってたんかな? ヨーロッパとかにも行けばよかったよ。イタリアでジェラート食べたかったなぁ。もし、生きられたら絶対イタリアに行きたいなぁ。)
頭の上から石とか砂とかガラスとかが、いっぱい落ちてくる。その度に目をつむってそれが止むのを待つ。
(あ、止まった。)
そっと目をあけて、口に入った砂やガラスを唾と一緒に吐き出す。
「ペッペ!ペーッ!!プェー!」
そんなのを、何度も何度も繰り返す。なのに、誰も助けには来てくれない。
(なんで。 私、やっぱり死んじゃうの。いやや、怖い。死にたくない。)
上の方からおばさんの声がする。
「助けてー! こっち、こっち!」
(え?誰か助けてくれるの? )
「助けてー、助けてー!」
「助けてー! こっちよ、こっち!」
でも、誰も助けてくれない。今助けてもらえたら生きられるのに・・・。
(あー、もう駄目なんかな・・・。)
半分目を開け、身体の力を抜き、じっとすべてに身を任せた。
ふと、目の前の塀におじさんが座っているのに気がついた。
おじさんに精一杯アピールした。右手をかすかに動かしおじさんの目を見て叫んだ。
「助けてー。お願い! おじさんが今助けてくれたら私生きられるからー!」
「助けてー! 助けてー! 助けてー! 助けてー!」
しばらくしておじさんがこっくり、うなずいた。
(やった。私、生きられる。)
おじさんが去ってから、目をつむって脱力してひたすら待ち続けた。でも、さっきまでとは気持ちが全然ちがう。
(だって、私助かるもん。)
なのに、一向に誰も来ない。どんどん肉体がレベルダウンしていく。
もう、どこも動かない。もう何も考えられない。
とてつもない痛みが全身を襲う
目の前にオレンジ色の服を着た救助隊のおじさんの顔が見えた。
「ねえちゃん、もう大丈夫やからな!!」
(私、助かるんや。)
こっくりうなずいて、そのままじっと待ち続けた。
でも、なかなか助けてもらえない。何か話をしているようだった。
(やっぱり無理なんかな。私とそっちの間に何か大きな棒とかがあるのかな。私を助けるためには誰かが犠牲になっちゃうのかな。でもせっかく見つけてもらえたのに、このまま死ぬなんていややから。 お願いやから早く助けて。)
ウィーンという機械音が聞こえてきた。
「姉ちゃん、大丈夫か? もうすぐやからな!」
目をつむって、うなずく。
どれくらい経っただろう。近くにオレンジ色の服を着た救助隊のおじさんが見えて、そのまま抱えあげられてフッと軽くなった。
(あぁ、とうとう助かった。)
私はもう体のどこにも、まったく力を入れることができず、全身が強烈な痛みに包まれていることに気がついた。
そのまま、広い広場みたいなところに寝かされた。
瞼に光を感じて、かすかに目が開いた。やっぱり青空と太陽が眩しくて。
あー、生きてる、私。
全身で幸せを感じた。
しばらくして誰かの声がした。
「救急車に乗って病院へ行くよ。」
(多分、私みたいな人いっぱいいるのに、救急車を独占してもいいのかな。)
でも、もうそこから病院に着くまで記憶が途切れていて何も覚えてない。
次の記憶は救急車から集中治療室までのストレッチャーの上。
頭の上から聞こえる声。
「30代女性。意識はクリアー。」
(は?何やって? 私はまだ26歳!)
最後の力を振り絞って、唸る。
「に・・じゅう ろーく、にじゅう ろ くです・・・」
「あ、ごめんなさい。26歳女性、意識はクリアーです。」
ちょっと場が和なごんだ。
「名前と連絡先言える?」
声を出すたび、私の体はどんどんレベルダウンしていく。
息を切らせながら、答える。
「みや・ざ・・き・・ちづこ・・・・ゼロ・ロク・ナナ・ロク・・・・・」
次に気づいた時は、集中治療室の中。
「服切るよー。ごめんなぁ。」
(え?だめだめ。これは妹からこっそり借りてきたジーパンやもん。妹に怒られるから。)
「自分・・・で脱ぐ・・・から・・・大・丈夫・・・。」
でも、身体はちっとも動かない。それにあとで知ったけど、服も靴も全部血まみれで、返されても妹も困っただろうな。
「妹の・・・・・借りたのに、ど・・・うし・・よ・・う。」
(はぁ・・・。)
ザクザクザクー
「下着も切るからね。」
(あ、しまった。今日の下着って上下バラバラやん。人ってこういう時のためにお揃いの下着、着けとくのか・・恥ずかしい。)
依然、身体中が痛くて痛くてたまらない。
先生にお願いする。
「先生・・お願い・・・。痛み・・止めし・・て。痛くて・・死にそ・・う。」
「ごめんね。どこが悪いかまず調べてからでないと駄目だから。」
なのに、その先生ちょっとどんくさくて、MRIに入る順番を抜かされて「あ~、また先越された」って言ってる。
(先生! たのむわ。早くして、私もう限界やから。)
また記憶が途切れる。
家族との対面
「今から別の病院へ移りますよ。」
「いやや・・。救急車・・・に乗ったら・・・痛くて・・死ぬ・・・」
「でも、仕方ないの。ここではもうできないから。」
救急車に乗せられる前、ふと目に入る見覚えのある人。
(あ、ボスと金光さんと後藤部長? 恥ずかしいなぁ。私ボロボロでしょ。こんなはずじゃなかったんやけどね。)
大丈夫ってこと伝えたくてちょっと笑ってみた。
「ちーちゃん、ちーちゃん、ちーちゃん。」
ボスが言った。
それを聞いて、なんかちょっとほっとした。
救急車に乗ると、今さらやってくる猛烈な痛み。特に左脚と骨盤が尋常ではないくらい痛くて、一ミリずれるだけで「ギャーー!」。
一ミリ戻っても「ギャーー!」大阪医療センターに着くまでの約30分間、私は絶叫し続けた。
骨盤の中はグッチャグチャで、左足は骨が皮膚から飛び出ていて、それで痛み止めも何もしてないねんから、痛くない方がおかしい。
看護師さんやお医者さん、運転手さんが必死になって私が一番痛くないようにがんばってくれるんやけど、私の痛みはさらに強く...
でもあとでその看護師さんから聞いた話によると、その日は阪神高速がすごく混んでいて、尼崎から法円坂まで全然動かなかったらしいけど、「ピーポーピーポー」って鳴ったらみんながサーッて両端に寄ってくれて、あっという間に次の病院まで運ばれたらしい。
そこからまた記憶は途切れて、次は集中治療室で白いシーツを被って動かない私がいる。
集中治療室はうるさい。ピーピーっていう機械音が不快感を募らせる。
隣の患者さんが「イテテテテ」って言う声がすごく耳につく。
看護師さんがやって来た。
「ご家族が来てくれているからね。もうすぐ会えるからね。」
私は、この時初めて家族のことを思い出した。そして、それと同時に、妹のジーパンとジャケットがすでにザクザクに切られたことも。
(や、やばい・・。)
そうこうするうちに家族と対面できる時間がやってきた。自分は大丈夫ってことを伝えたくて、平静を装おうとしたけど、みんなが入ってきた瞬間、「ごめんね、こんな運の悪い娘で・・・。」って思ったら、泣けてきた。
目の前が何も見えない。 誰も何も話さず、じっと固まって泣いている。
まずは恐る恐る妹に謝った。
「ご・・・め・・ん、服・・破られた・・・」
(あー、怒られる。)
「そんなん、いいに決まってるやん!」 泣きながら答える妹。
(え? 優しいやん。)
「えーーん、えーーん」
話したいこといっぱいあるけど、身体中が痛すぎて、言葉がもつれて、息が苦しくて、それで上手く話せない。後で聞くと、顔も2倍くらいに膨らんでたって。そりゃあ話しづらいはずやわ。
みんな、泣いてた。私の運が悪いせいでみんなを泣かせてしまった。
「私、生きられたのはほんまにラッキーやから。だから、がんばるねん・・・」
とにかくそれだけは伝えたかった。
あの時、頭も身体もグッチャグチャでおかしかったけど、これだけははっきり思った。
3 生と死のはざま
地獄の一週間
手術が行なわれるまでの八日間、私はただひたすら痛みに耐えることしかできなかった。
なにが悲しいのか分からないけど、目からとめどなく涙があふれてくる。
三日たっても四日たっても、ずっと涙が出てくる。あふれた涙を自分で拭けないから、その涙がどんどん耳に流れ込んでいく。すると、そのうち涙が蒸発して、耳の中に塩がたまっていく。
身体は依然どこも動かない。全身痛すぎてどこが痛いのかもわからない。
とにかくわかっているのは、私は生きているということ。そして、これからも生き続けられるということ。
寝ても起きても私の身体は一ミリも動いてない。あんなに寝相悪かったのに。
寝ている間は、大体怖い夢を見ていた。それでも寝ている時間は楽だった。痛みを感じなくなるから。
その日の夢は、私の顔からどんどん耳が生えてくる夢。しかも、本当の耳より大きくて気持ちが悪い。
一生懸命もぎとっていくのだけれど、それでもどんどん生えてきて、追いつかない。泣きながら必死でもぎとり続けて、それでもさらに生えてくる。私の周りはもげた耳でいっぱいになる。それがエンドレスで続く夢。
どんどん疲れてきて、ふって目が覚めると私の身体はベッドの上で泣きながら固まっている。
外からたびたび聞こえてくる救急車のサイレンの音が、本当に怖い。ぶっきらぼうに運転する人たちのエンジン音が怖い。
目をつむるとあの光景が頭に蘇って、自分がまたあの電車に乗っている感覚に戻る。
意識を失う前に聞こえた、電車とレールが擦れる異様なギーとかキューとかゴーとかが交じり合った音が、耳から離れない。それで今、自分が生きていることも信じられなくなってくる。
何が現実で何が現実ではないのか、よくわからない。
生きていたのはほんま?
これから生きられるのもほんま?
足切断されるのはほんま?
歩けなくなるのはほんま?
いつか治る日がくるのはほんま?
ある時、気がつくとベッドの周りに先生や看護師さんがいて、何か音がした。私にはノコギリで骨を切るような音に聞こえた。
「やめてー! 足、切らんといてー!! お願い!」
泣きながら叫んだ。
先生はちがうって言うけど、身体が動かない私には私の足がどうなっているか見えない。先生の言うこと信じられない。
あとで、足を切断していないってことがわかって、それでも泣きながら聞いた。
「私、普通の・・人み・・たいに・・歩ける・・ように・・なる・・の?」
「それは、まだなんとも言えないよ。」
生きていたからそれでいいなんて、エラそうに言っているけど、本当は歩きたい。元の自分に戻りたい。
(泣いたらあかんよ。泣いたら鼻がつまって、もっと息ができなくなるから。そしたら、またナース・コール押さないといけないやん。また 看護師さんに負担かけるでしょ。)
それでも悲しいもん。痛いし悲しいし不安で涙がとまらない。
家族や友だちがお見舞いに来てくれている時間は唯一、痛みを忘れられる時間だった。
みんなが帰るときは心の底から帰ってほしくないと思っていた。
(明日の面会時間まで、一秒一秒どうやって乗り越えたらいい? お願い、帰らないで・・・。 )
みんなが帰ったあとは、一秒一秒が恐ろしく長い。
目を開けると見えるのは天井の模様。目を閉じると見えるのは事故の光景。
どうやったって痛くてしんどくて。それで自分では何もできなくて。
息をすること。耐えること。困ったらナース・コールを押すこと。
これだけできれば十分やのに、なんでこんなに苦しい?
いつになったら、この痛みと不安と不快の渦から解放される?
天井の模様が、どんどんいろんな形に見えてくる。
(あ、馬が走ってる。おじいちゃんが笑ってる。今度は生ビールだ。)
歩いて食べて寝て飲んで、走って笑って泣いて怒る。
そんな当たり前の幸せに、ようやく気づいた私がいた。
一回目の手術
一回目の手術の日がやってきた。
私は手術をすれば、今より楽になるんだと思っていた。だから手術のことを考えてもちっとも怖くなかった。
でもやっぱり手術室までのエレベーターの段差、ベッドの揺れは恐ろしく怖かった。
病院のエレベーターは古くて、そっと押してもガタッとベッドが揺れた。私はそのたびに大声で泣き叫んだ。まるで身体の奥から溶岩が噴出してそれが一瞬にして身体全身に流れていくような痛み。家族が心配そうな顔で
「千通子ちゃん、がんばって!」「お姉ちゃん、がんばれ!」って、言いながら追いかけてきた。
(私、がんばる。だって、生きられたから。)
目が覚めたとき、私はICUにいた。
すでに手術室へ向かってから10時間以上が経過していた。身体はさらに猛烈な痛みに襲われていた。
左足の先から身体の中心に向けて発射される猛烈な痺れが、何度も何度も休むことなく身体中を突き抜けた。まるで身体を電流が流れているみたいに。
ベッドの上ではなく、固まる前のマグマの上にいるみたいに、全身が熱かった。頭はボーっとしていて思考回路は完全にストップしていた。
目をあけて、しばらくしてようやく自分が手術を終えた後の身体だとわかった。
右手で、ナース・コールを探った。
朝が来るまで押し続けた。何度かナース・コールの場所がわからなくなった。涙を流しながらそばを通る看護師さんに右手で訴えた。
看護師さんは何事もないように消えて行った。
ようやく気づいた。私はしゃべれない。水が飲みたい。でも伝えられない。
どっちにしても、人工呼吸器をつけたままでは水は飲めないことも知らず・・・
看護師さんが、文字盤を持ってきた。身体の力を振り絞って、右手の指を「み」まで持っていこうとした。届かない。「あ」は届いて
も「み」は届かなかった。
看護師さんも困っている。涙がどんどんあふれて私の耳はまた涙でいっぱいに。
頭がおかしくなっている私は、何度も文字をさし間違えた。そのたびにありったけの力を使って、間違えた文字の上を指でぐちゃぐちゃにした。
「いたみどめ」そう文字盤で示した。
看護師さんは、「ごめんね。15分に1回しかだめだから。あと10分待ってね」と言った。
マグマの上で10分待った。左に目をやると、赤い血がいっぱい入った袋がつるしてあって、私の体とつながっていた。
右に目をやると、いろんな管が私の身体につながっていた。
休むことなく、ピーピーとけたたましい機械音が鳴り続けていた。
音が私を苦痛の底へ引き寄せる。事故の恐怖を感じる。思い出すのではなく、あの時のあの時間に体が戻る。
一回目の手術を終えて地獄は続く
看護師さんが、痛み止めを体に入れてくれた。ピロピロピロー。この音だけは心地よい。
その音を合図に私の身体全身はほんのすこしだけ軽くなって、気づけばマグマから雲の上へと移っている。
次の瞬間、また熱い熱いマグマの上にいた。
結局、夜中から朝まで、眠れることはなかった。
早く朝が来るように。
早く言葉が話せるように。
早く身体が冷めるように。
早く音が消え去るように。
早く雷が止むように。
朝、目が覚めて目線を骨盤の方へ向けると、ベッドから鉄棒のようなものが、私の骨盤をまたぐように取り付けられていることに気がついた。
鉄棒がわずかに斜めになっていることがひっかかり、看護師さんに恐る恐る尋ねた。
「この鉄棒・・・ベッドから・・・生えてるん・・・やんね。」
「ううん。骨盤からよ。」
しびれた身体にさらに痺れが走った。私はもう考えることをやめ、またじっと目をつむった。
毎日のシーツ交換が、一番怖かった。
当時の私は身体はおろか、ベッド柵に触れられるだけで、身体中に痛みが走った。
姉はそんな私を心配し、ベッド柵に「触るな、注意」と書いた張り紙を貼っていて、まさに猛獣並みに注意が必要だった。
時間が来ると、お医者さんと看護師さん計八人で、素っ裸の私の身体を持ち上げる。その間に、他の看護師さんがすばやくシーツを敷きなおす。私は、身体のどこにも力を入れることができない。
「ゆっくりね、ゆっくりね。」
一六本の手が私を持ち上げる。
私の身体に猛烈な痛みが走る。
「ギャーーーーー。」悲鳴を上げる。
一人の医者の手がとても乱暴だった。私はさらに悲鳴を上げる。
「ギャーーーーー。」
一人の医者が笑っているように見えた。
ボロボロの骨でグチャグチャの身体で、男の先生たちの前で素っ裸で泣き叫ぶ私。でも何も抵抗できない。
先生たちは、誰も今の私を「患者」としか思っていない。なのに恥ずかしいと思っている自分が、さらに恥ずかしくて、悔しくて、情けない。
シーツ交換の後、主治医だった女の先生や、看護師さんに泣きながら必死で訴えた。
「あいつが、乱暴した。私、痛いってあれだけ言ったのに、痛いの止めなくてそれで笑ってた。」
頭がおかしくなっていた私は、「乱暴にされた」と「乱暴された」を完全に間違えていた。
でもあの時の私は、私が患者である前に1人の女性であることを無視されたことに、猛烈に怒りを感じていた。
午後、姉と妹が、シャンプーをしてくれた。
妹がそーっと、そーっと私の頭を持ち上げる。
姉は私の頭の下にさっとオムツをしく。そして、私の頭にお湯をかけ、そーっとそーっと洗ってくれる。
「お姉さん・・・ちえちゃん・・・きもちいい・・・ありがと」
「わたくし、首から・・・上は今、普通の・・・人間・・・やわ。」
そう言って笑って見せた。
2回目の手術を終えた次の日、私はまた猛烈な痛みに襲われていた。
熱は39度を超え、目は半分も開かない。母と姉はそんな私を心配そうにじっと見つめていた。
「オネーサン・・・アツイから・・・手ヒヤシテ。」
そう言うと、姉は冷たい手で私の手を握る。
「ツメタスギル・・・」「アツスギル・・・」「モウイラン」
姉が一生懸命、私の気持ちを理解しようと、必死になっている。
でも私の身体のレベルはもっともっと低い。
夜になっても、私の身体は何も変わらない。相変わらず時計の針が進まない。
母は申し訳なさそうに病室を後にした。
姉は24時を回っても、ずっと横にいてくれた。
ふっと目をつぶると、私は新幹線に乗っていた。
私は4人掛けの通路側に座り、シートベルトを締めた。他の乗客は誰もシートベルトを締めていない。新幹線が出発した。
しばらくして、隣のレールを走っていた別の新幹線が、脱線して私の新幹線の斜め上に圧しかかった。
他の乗客は反対側の窓からすばやく脱出したのに、私はシートベルトが外れなくて脱出できない。焦れば焦るほど、シートベルトは外れない。右側からどんどん新幹線が潰されていく。そして私の体も一緒になって潰れていった。
「キャーーーーー! オネーサン! 助けてー!」
目が覚めた私は、必死で姉に呼びかける。
部屋はしんとして、姉の気配はない。たった5分前に、姉は私の寝顔を見て病室を後にしていたのだ。
今度はナースコールを押す。
看護師さんが、いつもの笑顔でやってきた。
「どうしたの?」
「今、新幹線が脱線した。それで、私潰された。」
大声で泣いた。ほら、やっぱり。やっぱり死ぬんや。
私には夢と現実の境が分からなかった。看護師さんに手を握ってもらって、ずっとずっと泣いていた。
朝起きると、今日は母の日かな、姉の日かなと考える。
面会時間の15時まで、待ち遠しくてたまらない。早く、母や姉に会いたい。
来たら、まず足の下のシーツのよれを直してもらって、お尻を乾燥してもらって、マッサージをしてもらって。
してもらいたいことが山ほどある。自分では何もできない。看護師さんにはワガママばかり言えないけど、家族なら大丈夫。何でも聞いてくれるはず。
火曜日、15時になると、ドアの方で気配を感じる。
(母や。)
私は、いつも必ず寝たふりをする。母はそーっと、入ってきて寝ている私を見てそろそろと荷物をソファに置いて、さっそく洗濯物を整理し始める。
「ちょっとハハちゃん!」私が急に声を出す。
「いやん!起きてたんや!」
「びっくりした?」
「わかってたわ。どんだけ同じこと繰り返したら気がすむんよ。」
「ところで、今日のフルーツはちーこの好きなメロンです!」
「やった~。」
水曜日。またドアの方で気配を感じる。
(お姉さんや。)
またお決まりの寝たふりをする。
でも、姉はさらにうわて。
「そ~っと、そ~っと。よ~し、荷物をおいて、スリッパを履き替えてと。さぁて、喉が渇いたから千通子ちゃんのカフェラテでも飲もうっと。
あら、こんなところにケーキが。よし、今のうちに食べてしまおっと。」
「コ、コ、コラァ~! 私、起きてるわ!」
「わかってるわ!」
こんな毎日が来る日も来る日も続く。母と姉は片道一時間半の道のりを来る日も来る日も電車に乗ってやってきた。
身体も心も疲れ果てているはずなのに、誰もそんなそぶりを見せなかった。
のちに母が言っていた。
「入院中のあんたは、小さいころ、まったく手がかからなかった分を取り戻すかのように、一杯いっぱい手がかかったけど、なんかちーこには悪いけど幸せやったよ。」
夕方を過ぎると、妹や父がやってくる。
妹は無邪気でかわいい。
「千通子ちゃん! また顔色よくなったやん! すごいやん!」
喜んでいると思うと、次の瞬間泣いている。
「今日ね、電車に乗った時、千通子ちゃんがここで怖い目にあったんやと思ったら、ちえちゃん悲しくて悲しくて。」
妹は泣き出すと止まらない。鼻水を涙でぐちゃぐちゃになりながら、真っ赤な顔で泣いている。
綺麗好きの父は、一生懸命わたしの身体を拭いてくれる。
私は二カ月以上入浴することができなかった。身体は垢だらけでいつも異臭を放っていた。父は私が痛くないように、そっとそっと私の足の指の間に溜まった汚れを取ってくれた。
4 生きるパワー
3回目と4回目の手術
寝たきりだった私は、自分でおしっこをすることができず、いつも看護師さんや姉に手伝ってもらっていた。
どこに力を入れたらいいのかわからない私はベッドに寝転びながら、一生懸命おしっこのことを考える。ベッドのまわりには、看護師さんと姉と妹がこっちを向いて応援している。
「ファイト!」
「おしっこチャ~!お姉ちゃん、ファイト!」
みんなが、口々に応援してくる。
「出ないよ、どうしたらいいか、わからへんもん。」
妹が歌いながら踊りだす。
「かわいいベイビー!ハイハ~イ!」
「あ、出た・・・。」
「やった~!」
恥ずかしいことだって、痛いことだって家族がいると楽しくなるから不思議。
家族だけでなく、友だちの存在は私に力を与えてくれた。
中高の友だち、会社の仲間、大学の友だち、親戚、恩師、留学の仲間、前の会社の仲間、呑み友だち、近所のおじさんやおばさん、毎日代わる代わるいろんな人がやってきて励ましてくれる。
私を励ましてくれる人たちはみな、来るたびにどんどん綺麗になっていった。
みな穏やかな顔つきで、私に微笑んでくれる。
それである日、姉に聞いた。
「なんか、みんな来るたびに綺麗になっていく気がするわ。頭ぼさぼさの眉毛ボウボウで、不細工なんは、私だけや。」
「そんなことないで。千通子ちゃんがどんどん良くなってるからやで。昔は、みんな千通子ちゃんのこと心配で余裕がなかったけど、
千通子ちゃんの快復があまりにも早いから、みんな嬉しいねんで。」
「そっか。私の鏡なんや。じゃあ、私もっとがんばる。みんなに喜んでもらえるよう、がんばる。」
姉と妹は私が寂しくないよう、お見舞いに来てくれた人たちを写真にとって、その横にメッセージを書いてもらって、アルバムを作ってくれた。
私は、そのアルバムを右手が届く位置に立ててもらい、みんなが帰るとずっと眺めていた。
みんなの笑顔と励ましの言葉は、私が生きているということを意味していた。
もし、私が天涯孤独で友だちすら一人もいなかったら、とうの昔に死んでいた。
ベッドに紐で縛り付けられたように、動かない身体。身体のあちこちが悲鳴を上げている。それでも明日になるとまたみんなが会いに来てくれる。だから明日まで、がんばろう。
みんなと会うと痛みも痺れも全部飛んでいくから。手を握ってもらうと、パワーをたくさんもらえるから。
JR 西日本の社長がやってくる
「私のことで知っていることを話して。」
「三回も大きな手術をされ・・・。」
「それを知ったのはいつ。」
「一週間前です。」
「それより前に知っていたことを言って。」
「・・・・」
こんなに苦しかったのに辛かったのに、加害企業のトップは、そんなことさえ知らずに私が言い出すまで、何も知ろうとしていなかったの?
私の三カ月をなんやと思ってるの?
楽しいこともたくさんあったけど、その間に誰がどれだけ悲しんだ? 私がどんな恐怖に脅えていた? 誰が毎晩腕がパンパンになるまでマッサージし続けてた? シーツの摩擦が、隣の患者を世話する看護師さんの声が、足を家族にマッサージされることが、友だちがベッド柵に肘をつくのが、どんなに怖かったかわかる?
何も知らずに、ただベッドの上にいる私に気やすく謝られたくなんかなかった。
私が今できる最大の動きを見せつけた。
この人には膝が90度曲がるなんてたいしたことないかもしれないけど、私の膝がここまで曲がるまでにどんな毎日があったか知ってほしかった。
あの日の朝に死んだって思ってから今日までに、私と私の周りの人がどんなことを感じてきたか、知ってほしかった。
だから電車に挟まっているときに、私が死の傍で何を思っていたかを正直に話した。
他人の死に何も感じることができなかったこと。自分のことしか頭になかったこと。
そんなふうに思った私の気持ちを少しでも考えて欲しかった。
夜、一人になると急に悲しくなる。
足はやっぱりしびれ続け、体はちっとも動かない。とてもじゃないけど歩けるようになる気がしない。
お昼は、みんながいるから笑顔でいられるけど、一人になると我慢できなくなる。
「やっぱり、私歩けへんねんや。」
また涙がどんどん溢れてくる。
お昼に妹が嬉しそうに言っていた言葉を思い出す。
「お姉ちゃん、ちえちゃん決めてん!一生お姉ちゃん支えて生きていくって!だからお姉ちゃん、安心していいで。お姉ちゃん、これから何する? ちえちゃん楽しみやな~。お姉ちゃんは何したい?」
私、何したいんやろ、ちえちゃん。でも、その前に歩けるようになるんかな。やっぱりちえちゃんに支えてもらってばっかりじゃ、生きていかれへんもん。
事故の前は、誰の目にも留まらなかった私やのに、なんか今はみんなのやっかいもんになってる。泣きながら、目をつむる。
広い畑の真ん中で、動けない私がいる。畑から生えている木の棒にくくりつけられた私は、自分がカカシであることに気がつく。
ワラでできた私は、肩を落とし、ただひたすら立ち尽くしている。一歩も動くことはできない。ただ、じっと周りの景色を見続けるだけ。
朝、目が覚めた時それがまた夢だったと知って、少し安心する。
誕生日を迎えて
「寝転んだまま腕の力で起き上がりなさい。」
先生が背中を支えて持ち上げた。怖い。
先生がゆっくりと手をはなすと砂のように、背中がベッドに落ちていく。
自分じゃない。
悔しくて涙がでてきた。
「強く生きろ。今のあなたに必要なのは強さや!」先生が言った。
「私は強いもん、がんばれる。」
「いや、まだまだや。」
数日後、その日はヒロミがお見舞いに来てくれていた。ちょうど会社の友だちも来てくれて、みんなでおしゃべりしていた。
しばらくして坂井先生が来て、いつものように、ベッドを起した。
上半身が起き上がってきたところで、自分で柵を持って、ベッドから背中が離れるように力を入れたら、なんと背中がベッドから離れた。
昨日までは、どれだけがんばっても無理だったのに。
そしたら今度はベッドの上で体が斜めに向くようにして、膝をベッドの外に放り出した。
先生が私の足をそっと下げていって、私の上半身をゆっくりゆっくり持ち上げた。
気づいたら体が90度に起き上がっていた。横目で、ヒロミがウルウルしているのが見えた。
「やった! できた!」
先生は、太ももと腕にぐっと力を入れて、私を支えてくれた。先生の太ももがゆっくりと私の膝からはなれた。
痛くない。
先生の手を片方離してベッド柵を掴んだ。
「あかん! 自分で起き上がろうとする力が大事や。」
私は片手を離した。私は座った。
計画表に書いたとおり、ベッドにちょこんと座っていた。
70度なんかとは全然ちがう90度の世界が見えた。景色が全部横に向いていた。
「私、座れたわ。毎日寝転んでばっかりの私が座れたわ。」
その後は、誰かが来るたびに、座ってみせた。仕事帰りに私に会いに来た妹は、そんな私を見てまた嗚咽をあげた。
「おぇ、うぇ、うぇ~ん、千通子ちゃんが座った~!」
「もう、お姉ちゃん元は26年座れたんやで。」
八月一日の誕生日当日。
私はどうしても友人らをロビーまで送ってあげたかった。夢にまで見たお見送り。
姉が私の車椅子を押しながら、一階のロビーまで走った。
「気持ちがいい。縦に走るってなんて気持ちがいいんやろ。」
タクシー乗り場までいって、写真をとった。楽しくて楽しくてはちきれそうだった。
みんなで病院から飛び出すような感じがして、大笑いしたいくらい楽しかった。
手をふった。
なのに急に痛くなった。足も痛い、骨盤も痛い。もう全部痛い。早く帰りたい。
姉が「がんばれ、がんばれ!」って言いながら私の車椅子を押してエレベーターに乗った。
姉は、私が少しでも痛くないように、中腰になって必死で私の腰を手で支えてくれた。姉が熱くなっていて、息が荒くなっていた。
悔しくて泣きながら、姉を責めた。
「クッション、いっぱい敷いてくれてなかったから。もし敷いてくれていたら、私もっと座っていられたから。」
「そうやな、クッションちゃんと敷かへんかったからやな。ごめんな。次は、考え直そうね。痛いなあ。もうちょっとやからね。」
お姉さんは何一つ悪くないのに。
ベッドにもどりたかった。痛くて怖くて泣いていた。
病室にはマキが来ていて、泣いている姿を見られるのは恥ずかしいのに、さらにボロボロ涙がこぼれてきた。悔しかったし、情けなかった。
お姉さん、ごめんね。私もっとがんばって、きっとそのうち松葉杖が二本登場するから。
そのうち、一本の松葉杖が消えていって、
気がついたら車椅子が消えていて、最後には、残った松葉杖も消えるから。
だから、今は許してね。
夏の終わりに
屋上から、母と一緒に部屋に戻ってきた。屋上から見える雲一つない空が、綺麗だった。
部屋につくとすぐにJRのおじさんが部屋の前にいた。
遺族の方々の要望で、亡くなった方の写真を見て誰か一人でも見た人がいないかどうか確認してほしいとのことだった。
そのことは、前から聞いて承諾していた。母に「今大丈夫?」と聞かれたので、「大丈夫」と言った。
母がそのファイルを借りて戻ってくるまでに、心に決めた。
(絶対、泣かんとこ。冷静に、誰か一人でも覚えてる人がいないかどうか、ちゃんと確認しよ。)
母と一緒にファイルを見た。
一人一人、とにかく一生懸命思い出そうとして、あの日の風景を思い出しながら見た。
でも、私はあの日ずっと本を読んでいて、あまり顔を上げていなかった。誰を見ても初めて見る人ばかりだった。
最後まで見てもう一度最初にもどって、それからもう一回はじめから見た。
それでもやっぱりわからなかった。ファイルを返してからも、頭の中で何度もページをめくって、思い出そうとしたけど、誰一人思い出せなかった。
母が帰ってから、少し横になっていた。頭の中が、事故のことでいっぱいになってきて、体が重くて重くて動かなくなってきた。
みんなただ、目的地に行きたかっただけなのに。
ただそれだけのために、電車に乗ったのに。
悔しかった。悔しかった。
あの人たちが、あの時わたしが「まさか」って思った時、すべてが止まってしまったんやと思うと、悔しくて悲しくて、こんな悲惨なこと、なんで起きてしまったんよって、やりきれなくなった。
あの時一緒に電車に乗り合わせた人の間には、何の差もなかった。
なのに、あの人たちは何も思うことなく止まってしまった。
何かを思うことも感じることも、もうできない。
ただの日常の一瞬だったのに。
続かないということがどれほどの悲しみか、続かないということが誰かの人生にどんな影響を与えるのか、考えてほしい。
5 社会復帰をめざして
リハビリの日々
リハビリを国に打ち切られる
退院できたことを大喜びできたのも、つかの間。欲の深い私は、いつまで経っても歩けない生活に、いや気がさしていた。
いつも私は車椅子の上かベッドの上。
骨や関節、筋肉が痛い。仕方がないと分かっていても、まだまだ続くこんな生活はもういやだ。
顔はいつもむくんでパンパンで、ホルモンバランスの乱れからか、顔は吹き出物がいつまでたってもなくならない。
そのころ、私は理学療法と作業療法を週に一回ずつ40分受けていた。一週間でたったの計80分。でもみずから、お願いして退院させてもらったんだから仕方がない。
ところが、二月に入ってリハビリを打ち切られることになってしまった。
ちょうど四月から診療報酬が改定されるということで、私のリハビリを継続できるかどうかは、病院にも分からないとのことだった。
どれだけ待っても返事がこない。病院に電話をしても、また折り返すといって、かかってこない。
私のストレスはたまる一方。ストレスを発散しようにも、誰かの助けがなければ何もできない。
マンションの部屋で車椅子に乗って、ぼーっとしながら頭の中に沸いてくるのは、今後の不安、JR西日本の無神経な言動、あ~、全部腹立つ!
(なんで歩けない人間が、リハビリすら受けられないの? なんで加害者に、あんな言われ方されなあかんの? なんで、いつまで経っても歩けないの? 私、何か悪いことした? 何もしてないのに、こんな目に遭って、さらには国からも見捨てられて。そもそもなんで毎日こんな寒いんよ! 傷が痛むねん!)
せっかく元気になってきたのに、私の元気はすべて負のパワーへと変わっていく。
私は完全に悪循環の渦に呑まれてしまっていた。あ~、どんどん自分が醜くなっていく・・・
事故から一年
つらくて長い冬を終え、ようやく春がやって来た。ちょうどあの事故から一年が経っていた。
相変わらず、車椅子での生活だったけれど、右足への荷重制限は徐々に減り、三分の二まで荷重できるようになっていた。
先生が言った。
「荷重制限なくしましょか。もう歩いてみていいですよ。」
「え? 歩けるの、私が?」
「でも、ここからきれいに歩けるようになるまでには、半年、一年ってかかりますよ。」
「曲がりなりでもいい!歩けるんやったら、何でもいい! やった~!」
といっても、私は歩けなかった。一年間、地から離れることがなかった左足はまるでボンドで完全にひっついたかのように、床から離れない。
立ったまま左足を浮かすということは、一旦右足で全体重を支えなければいけない。そんなん無理!
ある晩、私は決心した。リハビリ入院する一足先に歩いて、先生をびっくりさせる!
今、歩く!
友だちと自宅で騒いでいた私は、ふとベッドから二メートルくらい離れた所に立ってみた。
ベッドに座って、私を見守る友だち。必死の形相で、まず右足を一歩出す私。でも、やっぱり怖い。右足に全体重が乗った瞬間、骨盤に激痛が走ったらどうしよう。いや、でも絶対今歩くよ。
私は覚悟を決めて、左足を宙に浮かした。
あぁ! 歩けた!
私は、そのまま三歩歩いてベッドにいる友だちの上に倒れこんだ。
「やったー、やったで! 歩けたよ! どこも痛くなかった! 自分の力だけで、ちゃんと歩けた!」
「すごい! すごいやん! 歩けたね! やっと歩けたやん!」
その後、私は誰かに会うたびに、ひょこひょこと歩いてみせた。
「歩けるって、めっちゃ便利! あぁ、気持ちい~! 最高!」
一年ぶりに両足で地面を踏みしめながら、進んでいく快感! しかも外は春。ポカポカして温かい。
私は、事故から一年経って、ようやく本格的なリハビリを始めることができるようになった。
6 新しい希望
アロマセラピーに出逢う
私の身体はどんどんよくなっていった。
「身体は先生が治してくれるもの」ではなく、「身体は自分が治すもの」。
ようやく、そう思えるようになった。毎日ジムへ通い、プールの中で歩行訓練を繰り返した。家では毎晩自主トレをした。
解剖学の本を読み、リハビリの先生の言っていることをよく聞いた。パソコンを開いては、身体について書かれているWebサイトを探し、次々とお気に入りボックスへ追加した。
私の身体はさらに加速度をつけ、自由さを増していった。
2006年6月19日には、とうとう念願の社会復帰を果たすことができた。週に三回、一日五時間。
私の周りの多くの人々が、なんとか私が負担なく働けるよう、一生懸命取り計らってくれた。
「また元通り、みんなと一緒に働きたい。また元通りの生活がしたい。」
事故に遭ってから、ずっとそう思い続けてきた私は、こんな役立たずの自分を温かく受け入れてくれた会社の人々に、感謝の気持ちでいっぱいだった。元通りの生活がすぐそこまで来ているように思えた。
しかし、実際の心と身体は思い通りに動いてはくれなかった。
ボスのニシやんは、たびたび私にこう言ってくれた。
「早く戻ってな。俺は、ちーちゃんは主要メンバーの一員として考えているから」
私はボスのそんな優しい言葉にも、こう返すしかなかった。
「ごめんね、ニシやん。昔の私なら気合で『わかった!がんばる!』って言えたことでも、今はどうしてもそうは言えないねん。
身体がどれくらいの速度でよくなって、いつ完全に復帰できるか、私にも全然わからへんし、見えへんねん。それに、今の私にとって一番大事なのは、仕事ではなくて自分の身体を治すことやねん。」
七月、ようやく人に身体を触られることへの恐怖が減ってきて、専門家にマッサージをしてもらいたいと思うようになった。これまで実家に帰ると家族がしてくれていたけれど、それだけでは、私の身体は持たなかった。
左足の裏は相変わらずしびれ、感覚は麻痺し、一年間荷重を制限されてきた右足は痩せ劣り、右そけい部(腿の付け根のパンツのライン辺り)は、手術でザックリ切られて、そっと触られるだけでも痛かった。
その他身体中のあちこちにまだまだ問題が残っていた。
そのため、私の身体は左右が驚くほどにバランスが悪く、それゆえに全身が常に筋肉痛だった。
ある日家でペラペラと月刊誌Hanako関西版の七月号をめくっていた。
「ベスト・アロマテラピスト」という特集の中に、一人のアロマセラピストを見つけた。
―施術後は身体の緊張がすっきりとほぐれ、英国式=リラクゼーション重視というイメージが覆されるはず―
「なるほど。ここに行けば少しは身体がよくなるかもしれないな。」
場所を見ると、偶然にも私の会社から徒歩一分の距離だった。
私はちょっとでも身体が楽になることを願って、さっそく訪ねていくことにした。
こうして、私はアロマセラピストの野田千佳子さんと出会った。
アロマセラピーを始める前、私は事前に準備した「私の身体」と書いた絵を取り出した。
そこには、身体の中でどこを触れると痛いか、どこが痺れているか、どこがつらいかということを詳細に書いた絵。
私は、それを見せながら、野田さんに自分の身体のことと、これまでに起きたことを話した。
アロマセラピーが始まると、私の緊張の糸が嘘のようにするすると溶けていった。
入院中、ベッドの上で一番気持ちがよかったのは、身体をもみほぐしてもらうことと身体を拭いてもらうこと。
でも、いつも恐怖が付きまとっていた。少しでも強くされると恐ろしい激痛が走るから。
今、ようやく安心してアロマセラピーを受けられるようになった。
人の手は、本当に温かい。そしてパワーがある。
野田さんの前で、私はこれまでの話をたくさんした。普通の人は気持ちよすぎて眠ってしまうらしい。
ところが、私はこれまで身体の中に溜まってきたへ どを全部吐き出すかのように、施術の間中ずっと話をし続けた。
私はその後も、しょっちゅう野田さんのサロンへ通った。野田さんは、JR西日本が副次的な治療を認めようとしないことを知り、私が安心して通い続けられるようにと、通常の10分の1の費用で施術を引き受けてくれた。
経営者と客という関係で出会った野田さんが、私のために何かできることはないかといつも考えてくれることは、私にとって少々驚きでもあった。
ある日、野田さんが言った。
「心療内科を受診してみたらどう?」
私は、絶対に心療内科へ行きたくなかった。
せっかく、こうしてよくなってきているのに、知らない先生に話をして、また疲れてヘトヘトになって、あげくの果てにあなたはやっぱりPTSD※6です」って言われたくなかった。
今の自分の心を受け入れる余裕が、まったくなかった。
「電車に乗れないのは、当然。電車の音が怖いのも当然。フラッシュバックも仕方ない。怖い夢も、そりゃあ見るでしょ。だってあんな事故に遭ったのだから。」
そう自分に言い聞かせていた。
PTSDに見舞われて
にも拘わらず、次々と襲いかかるPTSDの症状に、私はしょっちゅう苦しめられていた。
8月22日に鎖骨のワイヤーを抜く六回目の手術を受けるために一週間ぐらい入院。退院して2カ月ほど経ってからのことだった。
私は、マンションで一人、妹とパソコンを使ってチャットをしていた。いつものように、くだらない話をし合う私と妹。
次の瞬間、けたたましい警報音が部屋中に鳴り響いた。
ウーウーウー。一三階で火災が発生しました。あせらず、すみやかにマンションの外へ出てください。
妹に文字を送る。
「火災が発生したって。どうしよう。」
身体がどんどん自分の身体でなくなっていく。頭が熱くなって、顔は引きつり、涙があふれてくる。
「まじで?」
「また大きな音が鳴っている。もういやや。身体が震える。」
「とりあえず、外に出て!」
「いやや。もういい。」
「あかん、携帯持ってすぐに行き!」
「いやや。もうここにいる」
また、いつものようにあの考えが私を支配する。
(ほら、やっぱりそう。私は、結局は若くして死ぬ運命やったんや。あの事故の時は、たまたま助けられただけで、結局はこうして死ぬはずやったんや。)
「一回、外を見てみて。他の人はどうしてる?」
「・・・」
「ちょっと、大丈夫?」
「・・・」
「ちょっと、ほんまに大丈夫?」
私は、ゆっくりゆっくりと、ズボンを履き替え、上着を来た。
耳を塞ぎながら、マンションの外へ出た私は、マンションからどんどん遠ざかる。ふと振り返ると、マンションは火が噴くどころか、いつもと何も変わらない。
私は急いで電話をし、泣きながら言った。
「今、火災報知機が鳴ってる。」
「今すぐ逃げないと!」
「もう逃げた。」
「どこにいるの?」
「マンションから離れたところ。」
「マンションは?」
「いつもと何もかわりない。」
「え?じゃあ、大丈夫やんか。大丈夫やで。それは誤報やし、もうマンションの外にいるねんから、問題ないやん。大丈夫!」
ようやく、自分の状況を把握した私は、ヘナヘナと崩れていった。
「しばらく、喫茶店にでも行って、ゆっくりお茶して気を休めたら。」
喫茶店でも、私は涙が止まらなかった。また死の恐怖をそばに感じたからではない。
「なんで? なんで私はまた生きることを諦めた? なんで必死に逃げようとしなかった? せっかく助けてもらった命やのに。
やっとここまで良くなったのに。これから、やりたいことだって一杯いっぱいあるんでしょ。なのに、なんで。なんでよ。なんでよ。」
心療内科にかかる決心
野田さんに心療内科を勧められてから、三カ月以上が経過した11月、ようやく心療内科へ行く決心をした。
その三カ月のあいだ野田さんが、なんとか私が自発的に心療内科へ行くと言い出すよう陰ながら努力していたと知ったのは、ずいぶん後のことだった。
案の定、心療内科に行った後は、いつも以上にヘトヘトに疲れた。家に帰るとベッドの上で固まったまま、夜になるまで動けなかった。
頭がチリチリして熱い。長時間事故の話をしたことで、私の頭はまた事故とJRのことで埋め尽くされた。
「こんなに疲れるなら、もう行かなくてもいいわ。私は身体も治さないといけないのに。」
それでも、もう一度行ってみることにした。疲れるけれど、今度は少し楽になれた。
先生は、私の心と身体を全部含めて受け入れてくれる。
「いつも、がんばらないといけない。」
「いつも前向きでいないといけない。」
当然のようにそう思い続けてきた私が、すっとすの自分に戻っていくような気がした。
先生は、
「いろんなことを避けながら生活していたのが、ひとつひとつ整理できてきて、消し去ることはできないけど、受け入れることができれば、もっと楽になるよ。」と言った。
早く社会に復帰したいという思いが強すぎた私は、さまざまな心の症状に目を向けず、それらを抱えながら社会復帰をしてしまっていた。
そして、私を支持する周囲の期待とは裏腹にかえって病状を悪化させていた。
「元に戻ることだけ考えてもあかんよ。時はあれからずっと流れ続けているから。元に戻ることだけを夢見て、がんばる時間はもう過ぎた。次はもっと前を向いて進まないと。」
会社を辞める
一月最終日。月末とあって、みな忙しそうに働いていた。そこに、一人ボーっと椅子に座っている私がいた。
人生を長いスパンで見れば、今は心と身体の治療に専念することが先決。
自分でも納得したはずなのに、私は朝から涙を堪えるのに必死だった。
東レも東レのみんなも、これまで関わった人たちもみんなみんな大好きなのに。やりきれない想いがあった。
感謝の気持ち、これまで無理を言い続けてきたことに対する申し訳ない気持ち、寂しい気持ち、残念な気持ち、離れたくないという気持ち、復帰してから、何一つまともに仕事をすることなく去っていく無念な気持ち、さまざまな気持ちが私に一気に押し寄せてきた。
あぁ、終わってしまう。
(ねぇ、20代がどれだけ大事な時間かわかる?
女の子にとって大事な大事な20代の時間が、化粧もできず、
オシャレもできず、パンツを穿くことさえできず、
眉毛はボウボウでどんどん過ぎていったんよ。
やっとこうしてよくなったのに、大好きやった会社も
辞めることになってしまったし…。私の人生、狂わされてしまったわ。)
(そうじゃないやん。20代が終われば、30代が来る。
そのあとは、40代、50代、60代、70代、80代、90代、100歳・・・
生きている限り、歳は誰だって平等に重ねられていくもの。
どれだけ大怪我をしたからと言っても、こればっかりは神様にだってどうしようもないよ。
今の一年がそんなに大事? どうしても今じゃないとダメ? 生きている限り、人生はまだまだ続いていくやん。
歳を重ねられるということは、生きていることの何よりのあかしやん。)
そっか。私の中のもつれた糸がふっと解けた。
「ちえちゃん! 私、今日から考え、改める! 90歳まで生きられると考えて、残りの人生あと約60年。今後は、物事60年スパンで考えることにするわ!」
「お姉ちゃん、ながっ!」
何歳?と聞かれても、「事故で一年は動けなかったからマイナス一歳と考えて、27才です。ちなみに私の体内年齢は、19歳という結果でした」なんてしょうもないことを言うのは、もうやめよう。
明日からはいつだって、胸をはって「28歳、無職、懸命にリハビリ中です!」と答えよう。
こうして私は大好きだった東レを離れ、心と身体の治療とリハビリに専念することになった。
ピラティスとの出逢い
2006年8月、歩き始めて4カ月が経ったころ、私は一つの壁に直面していた。
リハビリ病院での理学療法を担当してくれる堅田先生は、とても熱心に私を回復へと導いてくれた。週に一度40分という時間を目一杯使って私の筋肉を調整し、私の歩き方を観察し、自宅での宿題を用意し、私の話を聞いてくれた。
でも40分という時間は、あまりに短すぎた。それに何とか病院にお願いをして継続させてもらっていたこのリハビリも、もういつ切られてもおかしくない状況だった。
私がこの事故に遭っていなかったら確実にとうの昔に終了していただろう。
それは、私のことを思ってくれる堅田先生にだってどうしようもないことだった。
私の身体はまだ元の姿には、程遠い。歩き方も変だし、早くは歩けない。ちょっと歩くと身体のあちこちが痛くなってくる。仙腸関節に激痛が走るともうその先は怖くて歩けない。
夜中に足が引きつると、翌日は激痛で午前中は一歩も歩けない。友だちは平気な顔をして「おぶってあげる」って言うけれど、本当は重くて死にそうに決まっている。
なのに、私は無理を言ってお願いしないとリハビリを続けることすらできない。
家やプールで行う自主リハビリは、思うようには進まなかった。
それは当然といえば、当然だった。
負傷してから今日まで、私の身体を元の状態に近づけるために行なわれて来たものは、時にお医者さんの素晴らしい手術であり、看護師さんの懸命な看護だった。
そして、今のそれは、「自分自身でリハビリを行うこと」だった。
事故に遭った日から、カラダがよくなる日までを一本の線として、大きく見てみれば、手術と同じくらい大事なことが、身体の仕組みすらろくに知らない怪我人に委ねられた。
「家でも横向きに寝転がって、足を上げたりする練習をしてください。」
同じような状況に追い込まれた友人は、医者に一言そう言われ、診察が終わったと嘆いていた。
見た目は同じような動きでも、どの筋肉を意識するかでその意味は大きく変わってくる。
特に私のように左右非対称にあらゆる箇所を複雑に骨折し、手術の時に切断されてしまっている身体では、本来使うべき筋肉を上手く使うことができず、使える筋肉だけを必死に使い、結果痛みへと繋がっていた。
ガタガタの身体を、私自身が理解できていなかった。
この大事な回復期に、もっと十分な時間をかけて質の高いリハビリを受けられたら、私はもっとよくなれるはずなのに。
来る日も来る日も模索し続けて、私がようやくたどり着いたのは「ピラティス」※8だった。
私は自宅近くに、優秀なピラティス・インストラクターがいるスタジオがあることを知り、さっそくそこへ向かった。
ピラティス&ヨガスタジオB3 ®(ビーキューブ)。
過去に柔道整復師としても活躍していたインストラクターのワタル先生は、堅田先生と同様、身体への造詣が深く、また熱心で温かいハートの持ち主だった。
さっそくピラティスを始めてみる。
一見、誰でもできそうな、ゆったりとした動きは、私にも簡単にできる気がした。
なのに、ワタル先生はどんどん私に指摘する。
指摘されてみて初めて自分の身体のおかしな所に気づく。
「あ、ここも。あれ、ここも。こんな簡単なことが右足ではできなくて、こんなことが左足だとできる。あれ、真っ直ぐ立ってるつもりだったのに、こんなに右骨盤が前に出て、脚がねじれている。」
自分の身体を知ることは、自分で身体を治すための、第一歩だった。
自分の身体を理解しながら、自分の内側に意識向け、身体を丁寧に動かしていくピラティスは、まさに、私が今一番必要としているリハビリに思えた。
そして今
会社を辞めたころ、私は一つの連絡帳を作成した。
病院やリハビリに行くたび、それをそれぞれのスペシャリストに手渡し、その日に行ったリハビリ内容や、私の身体の状態などを、自由に書いてもらった。
私も毎日何をしたか、何を感じたか、どこが痛かったかなどを自由に書いてみた。
リハビリ病院では堅田先生が、主に私の脚や骨盤周りの筋肉を触り、正常な状態へ調整してくれる。
そして、私の体の問題点や課題を連絡帳に記してくれる。
B3 ®へ行くと、私のトレーニングメニューを用意して待ち構えているワタル先生が、連絡帳の内容も参考にしながら、一時間みっちりと私に身体の動かし方について指導してくれる。
そして、最後に連絡帳にその日行なったトレーニングがどの筋力を強化する為のものか、どこを安定させるためのものかといったことを詳細に記してくれる。
プールや自宅では、連絡帳を読み返しながら、ピラティスで覚えた動きを思い出し、自分自身でトレーニングを行う。
そして身体が疲れた時は、野田さんのサロンや按摩、温泉などに行き、痛みを軽減させ硬くなった筋肉をほぐしてもらった。
一つの連絡帳が、私の頭の上で羽をつけてパタパタと飛び、それはスペシャリストからスペシャリストの手へと渡っていく。
そして、それぞれのスペシャリストの力は二倍三倍の力となり、そして私の身体はみるみると元の自分の身体へと近づいていった。
私は六月に、七回目となる最後の手術(左下腿の抜釘※9)を受ける。
手術の後はまた、今までのように衰えた筋肉をつけるべく、リハビリに励む日々が続くだろう。
私はできるだけ元の身体に近いレベルで症状固定できるよう、絶対に妥協はしない。
髄内釘(ずいないてい)やスクリューをはずした私の足は手術前以上によく動き、しびれも治まり、感覚は戻っている。
左右の足は同じ太さで、まっすぐに地面から伸びている。
私はピョンピョンと飛びはね、30分は楽に歩いている。
そして、5分経っても10分経ってもその美しい姿勢はくずれない。夜に足がパンパンになってけいれんすることに脅えることもない。
そして体中の傷跡は少しずつ他の肌と同化し、影を潜めていく。
私はもう人生をあきらめたりしない。
どんな時でも強く生きたいと願い続ける。
私はきっとそうなる。
まだまだ先は長いけど、何が起こるかわからないけど、できないことを嘆くより、できることから始めよう。
だって、私はもうこんなにたくさんのことができるようになったんやから。
昔は想像すらできなかったことが、一つ一つ現実になっているんやから。
そしていつか、私を死の底から救ってくれた多くの人たち、救助隊のおじさん、事故現場の近隣の人々、小椋さんご夫妻、救急車の運転手さん、さっと道を譲ってくれた多くのドライバーの皆さん、お医者さん、看護師さん、
家族、家族の友人、おばあちゃん、天国のおじいちゃん、親戚、多くの友だち、友だちのご両親や彼や彼女、先輩や後輩、大学の恩師、
会社の仲間、仕事で関わった多くのお客さんや中国の工場のスタッフの人々、お掃除のカツコさん、理学療法士の先生、ベストマッサージの先生、美容院ROOTSの皆さん、新聞記者のお兄さん、私の新聞記事を見て励ましてくれた皆さん、ネット上でいつも応援してくれた皆さん、病院の前で人や車を誘導してくれるおじちゃん、
ワタル先生をはじめとするB3のスタッフの皆さん、コナミスポーツのスタッフの皆さんや、プールで声をかけてくれるおじちゃんやおばちゃん、英語の先生、オーストラリアで出会った多くの友達
そしてこの手記を書くきっかけを与えてくれた野田さんと山口先生。
そんな人たちのように、私も人に命を与えられる人間になりたい。
ー 完 ー
JR福知山線事故の本質 企業の社会的責任を科学から捉える
NTT出版 (2007 年) 編著者 山口栄一
第一章 宮崎千通子・山口栄一
最後まで読んでくださった皆さま、本当にありがとうございました。
私の経験がなにかのほんのきっかけになれば、嬉しいです。
よかったら、このご縁を大切にしたいので、FacebookやInstagramでも
つながっていただけると嬉しいです。「書籍読んだよ!」と一言
メッセージをください♪
最後にわたしからお願いです。以下の3つのどれかで、感想をいただけると、とってももうれしいです。
ありがとうございました。
皆さまの日々のしあわせと健康を、心からお祈りしています。
■講演、取材に関してはこちらから
最後までお読みくださり、ありがとうございました。