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瞑想からの気づき ~欲しい・したいが言えなかった~それを周りのせいにしてたけど実はそうでもなかったお話

この前瞑想していて、苦しみの状態の根源にたどり着くべく深掘りしていった先に、見えてきたことがありました。

小さい頃はどんな子供だった?どんなことが印象的だったか?ということを遡ってみました。幼いころの私は身体が小さくてということもあり、なんとなくですが、全部親が先にいろいろとレールを敷いてくれていた人生でした。

無理強いされるでもなく、ただ何となく、苦労せずに楽にすすめる道に手を差し伸べてくれていたんだと思います。そして、それに私は乗っかっていただけ。何も考えず。乗っかることを選んだのは私自身、だから誰のせいでもない。

と今なら思えます。

でも、人間ずるいものでして、、、。
上手くいかなかったことは、誰かのせいにしたくなるものですよね。もちろん私も思ってました。

なんでも先回りして準備してもらってたから、私は自分で決断することをしてこなかった。だから自分で決めることに自信がないし決めれない。

いやいや、レールは敷いてくれていたかもしれないけれど、そのレールを進むことを選んで決めてたはず。だから決断に自信がないのは、自分自身のせいなのにいつの間にか都合よく周りのせいにしていた。

確かに!過保護に育てられたのは否めません笑
まさに「かごの中の鳥」だったと思います。

でも。その鳥かごの入り口は開いていたし、身動きが取れなかったわけではない。縛られていたわけでもない。いつでもどこにも飛んでいけたし、そこに居続けることもできた。

つまり、ちょっとだけ制限のある自由の中にはいたのは事実だけれど、いつの間にか都合の悪い記憶を誰かのせいにして書き換えていたのは、私自身でした。

そうはいっても、自分のしたいこと、欲しいものが言えない不自由さがあったことも事実だと思ってます。

こんなことを鮮明に思い出しました。

小学生に入るまえからスイミングに通わせてもらってました。スイミングスクールの指定水着ってありますよね。でも私は体が小さかったので、皆とお揃いの水着ではなく別デザインのモノだったんです。

それが、ものすごくイヤだった。みんなと同じでないから目立つし、ホントはみんなと同じが良かった泣
でも、私のサイズがないわけだし仕方ない。ほんとに嫌だったし、進級テストのあとの集合写真も嫌だった。だけど、それを言えなかった。写真の中の私は笑顔ではなかったから、ホンマに嫌やったんでしょうね。

次に、なぜそれを言えなかったのか?
という苦しみを観てみました。

そう。私は「みんなと同じ」が良かったんです。
同調圧力とは少し違うかもしれませんが、帰属意識が高くて同じであることで安心感がある。目立つことが苦手なのは不安感を持ちたくないから。

周りと同じであれば安心する。つまり、周りと違うことをすると不安になる。だからあえて違うことをせず、自我を出すこともしないということを選んできた。ということになります。

もう一つ。
昭和の時代。女の子のランドセルは赤、文房具はピンク、という色に関して、いわゆる女の子色と言われていたカラーを好んでいた。
本当はピンクのスニーカーがほしかった。
買ってもらったのがブルーのスニーカーで、その時は喜んでいた。だけど本当の私はピンクがほしかった。

靴を買ってもらえなかったわけではない。だけど「ピンクが欲しい」が言えなかっただけ。思いがけずにピンクの靴を買ってもらえた時は、大事に大事に汚れたら拭いて大切に履いていた記憶があります。

また、私は真ん中っ子だったので、大体姉のお古だったけれども、身長差があったので、小学校高学年のときにはじめて私の自転車を買ってもらいました。そのときも同じく、真っ赤な自転車を毎日ぴかぴかに磨いて乗っていた。とてつもなく嬉しかったんだと思います。

あれ??(書いていて思ったのですが)
”コレが欲しい”を言えていたこともあったことを思い出しました。

赤やピンクの女の子色がよかったのは、みんなと同じがいいと思うのは、周りと違うことに対しての不安から逃れるためで、じゃあ「これが欲しい!」という自己主張がなかなかできなかったのは、なぜなのか?

ここからはちょっとまた時間がかかりそうなので、別の機会にもう少し深掘ってみたいと思います。

あ!もう一つ思い出しました。

もっと小さかったころ、初めて買ってもらったサンリオキャラクター(タキシードサムって覚えてる?)のヘアピン。このことを思い出すと、なぜか涙が溢れだす。まさに琴線に触れたかのようでした。

これってなんの涙なんだろう?
ほしかったものを買ってもらえたのに、なぜ涙がでるの??

この感情をまた観ていきました。
そして出てきた感情は、『言えた。。。』ことへの安堵感なのか?と思ったりもしたけど。うーん、これはちょっと違うかも。

「言いたいことが言えなかった」という呪縛から、『言えたこともあったよね、買ってもらえて嬉しかったよね』 ここを思い出してその置いてきぼりになっていた感情に触れることができたから、涙が溢れてきた。そんな感じです。

感情って不思議ですね。そのときの感情を勝手に思い込んでフタをしていただけ。いいように解釈をしているだけのような気もする。だけど何かに触れて感情が動いたから”涙”という反応が生まれた。

私の「欲しい、したい」が言えなかった過去の呪縛を一つずつ解放することが、苦しみの意識状態に反応反射してしまう自分からの脱却になる。長い道のりになりそうだけれど、ここを紐解くとまた何かの感情の解放に繋がる気がします。

瞑想していると、ときどき困惑に陥ります。これまで感情に蓋をしすぎていて、どれが本当なわからなくなってる。そして深ぼったとしても、勘違いか思い込みっていうトラップもある。

今回の深掘りは若干宙ぶらりんになってますが、遡って観察していくときにものすごく鮮明でカラーな映像が見えているということ。記憶ってすごいよね。

だから、瞑想するときには丁寧な感情の観察が必要だなと感じた深掘り時間でした。

焦る必要はない。ゆっくりと丁寧に観察していく。だから瞑想は筋トレなのです。学びが深いね。


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