30: バーナデット・ロバーツ著「神はいずこに」より - 「判断」の大切な備忘録
今回は感想では無く、自分が何度も見たい内容なので本当の備忘録です。
ここに書いたので、見たい時はすぐ見る事が出来ます。
バーナデット・ロバーツの自分が知っている日本語訳の本は「自己喪失の体験」と、この「神はいずこに」になります。
今回の引用は「神はいずこに」ですが、今回取り上げた「まえがき」は「自己喪失の体験」の中で使っていた「判断」についての補足説明として書かれています。
自分にとって「判断」は、色々な記事の中に関わっている程、注目している概念なので、「こんな話」を見ると飛びついてしまいます(笑)
■「神はいずこに」の「まえがき」より
「開かれた心」に関する章で、私は「判断」という言葉を使っていますが、それは意識的に行われる道徳的判断のことではなく、心の自動的な識別作用を指しています。この無意識的な識別作用は、それ自体、微細な形態な判断なのですが、自己意識とあまりにも密接に結びついているため、この作用が停止すれば、自己意識も停止してしまうでしょう。一例をあげるなら、私たちは人と会ったとたん、反射的に自分自身を意識します。そしてこの反射(再帰)的な内省作用と共に、連想作用が働き始めます。けれども、私たちはこの微妙な識別作用を経ずに世界や人々を見られるようにならなければ、それらをありのままに見ることはできないのです。それまでは、それらを自分の中にあるイメージとして見ているだけであり、それはあるがままを見ることとはまったく異なります。私たちは、他者をまったく新たなものとして、あるいは初めて会ったときのように見ることができなければ、他者の中にも自分自身の中にも変化を起こすことはできません。ですから、私が今述べている微妙なかたちの識別作用は、より完全な慈愛、同情、赦し、正義などを求めるうえでの妨げになるのです。
ここで理解すべき重要な点は、この瞬間に反応する意識は対象を自動的に識別するということです。こうした識別作用を行っているさなかにその心に気づくようになるなら、私たちはやがて、心が自らを意識する行為の真っ最中に、その心をつかまえられるようになるでしょう。私がこの章で述べておきたかったのは、心には自動的で無意識な活動があり、その活動において、識別作用と自己意識は別物ではない(すなわち、識別作用の停止は自己意識の停止に等しい)ということの発見だったのです。
そのときは気づかないかもしれませんが、この発見は、やがて訪れる自己意識の停止に向けての重要な洞察ないし準備となります。この識別作用は、当初は微細なレベルでの判断であるように思われますが、やがて、微細なレベルでの自己意識であることが判明するのです。私はこの事実を本書の新版で明確にする機会がもてたことをありがたく思います。
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