そのままでいい、は自分以外を傷つけていい、じゃない。
悲しい事件が多い。小説よりも現実の事件の方が悲惨で、ニュースを見るだけで苦しくなくる人もいるのではと思う。
このタグは多様性を考えるなので、もちろんその内容なのだが最近どうも勘違いな方向に向かっている気がする。
LGBTという言葉が一般的になってきた時、密かにこれは相互理解が深まるより良い社会になるのでは、と期待していた。以前からゲイの友人はいるしルーポールのドラァグレースは大好きで全シーズン見まくってるほどだし、私自身もだいぶAなわけだ。ドラァグレースの中で謂れのない差別を受けた経験が語られるたび、家族間の確執が取り上げるたびに、互いの違いをそのまま受け止められる人間関係の構築について思うところがあったから、多様性という言葉がトレンドから一般的な言葉に定着していく頃には期待を持っていた。
ところが、蓋を開ければなんのことはない。
ただ単純に女性に我慢せえ、という事態が加速しただけだった。
おまけに可愛らしいものが好きな男子、勇ましいものが好きな女子にはトランスへの道を進める向きすらあると聞いて背筋が寒くなった。
なんでこうなるのか。
某新宿のジェンダーフリートイレ然り、勘違いがすぎる。
我々、人は誰でも「違う」部分を持っている。共通なのは人類であることくらいで、性別も経験も出身も肌の色も体型も考え方も宗教も違う。
その「違う」という部分を「ああ違いますね」と受け止めるだけのことがなんでできないのか。
子供らに関しては、思想も考え方も全部がまだ成長途中。いろんなトライアンドエラーの中で自分を作っていく段階なのに、ジェンダー認識をさせる必要はない。というか無理だろう。
私は女に生まれて女を半世紀近くやってるが、何度か男に生まれたかったと考えたことはある。あるけれど、別にレズビアンなわけではなく、性転換手術を受けたいわけでもない。女だと不利なことが多すぎるから男に生まれたかったと考えていただけだ。
不安定なのは大人だってそうで、思春期なんて最もそのピークな時期だろう。自分が何者なのかまだわからず模索する年代にはいろんなトライアンドエラーが発生する。それでいい。そんな間違いをして失敗をして、社会という荒波を生き抜くための自分を作っていくんだから、たくさん転けた方がいい。その中で女装や男装してみたくなることだってあるだろう。でもそれが当人のジェンダーなのか? 体を変えてまで別の性になりたいのか?
というのはまた別の話だろうに。
最近は「自認」で性別を決められるらしい。
面白いね。これ。だったら私は大正8年生まれを「自認」しているので年金とかいただけるのかな。
自認すりゃなんでも許されるわけじゃない
でしょ? じゃないとなんだってアリじゃない。
私は今日からウォルトディズニーです。そう自認してます、って言ったらんじゃ世界中のディズニーが持つあらゆる版権やら権利が私のものになるわけ? なるわけがない。そんなもん。
ルーポールのショーを見ながらもっと相互理解が進む世の中になればいいのに、とほんわり考えていた頃には思いもよらなかったが、どうやらこの世の中にはなんでも使えるものは湾曲して利用する思考回路を持つ人々が存在するらしい。
怖いのは、それが他者を傷つける行為につながるときだ。
「相手が了解していると思った」
「喜んでると思った」
「自分はこういう特性があるので仕方ない」
自認、って便利な言葉だなと思うが、要するに思い込みの部分が大きくて本人じゃないと判断できない領域なのだ。
幼稚園生でもわかる基本の「他人が嫌がることをやっちゃいけません」を嫌がられてない、むしろ許されてる、などと思い込まれてはたまったもんじゃない。そして特性があればなにをやっても許されるわけじゃない。多くの人が働き生活する社会では、お互いに不快にならない程度の良識と常識と法律やルールを遵守して生きることが必要なのだ。例えば派手な格好や髪をして歩いてても全く問題じゃないし違法でもないが、それが全裸ならダメということ。サバゲーが趣味でモデルガンやらコレクションしても全く問題ないが、殺人をしたらダメ。そういうこと。
多様性を考えるのはいいことだと思う。みんな違うんだから、違うんだってことを認識するのは必要だと思う。特に十把一絡げにまとめて平均的にしたがる日本の国民性の中では、とても重要なことだと思う。
いくら勝手に自認しようが、自由だとも思う。
ただひとつだけ。
良識・常識・法律を守れない行為=他者を傷つけることは、ダメだ。
ただこれだけのことなのに、なぜおかしな方向に向かうのか。
不思議でたまらない。