「秋の声」 上
1分小説
この物語は2章構成になっています!
第一章:静かな秋の足音
里田瑠璃は、町の片隅にある小さな和菓子屋で働いている。そこは祖父の代から続く伝統の店で、彼女は幼い頃から祖母のそばで餡の練り方や団子の形の整え方を見て育った。秋の風が冷たくなり始めると、瑠璃の手も自然と季節に寄り添った菓子を作り出す。
その日、瑠璃は店の奥で秋の新作「柿羊羹」を練っていた。柿の瑞々しさと、ほのかな酸味が上手く引き立つようにと、何度も何度も試作を繰り返している。赤く色づいた羊羹が静かに固まる様子を見つめていると、店の前にかすかな人影が映った。瑠璃はハッと顔を上げ、急いで手を洗いながら、来客の気配を察する。
その人物は、瑠璃が最近よく見かける男だった。いつも同じ黒いコートを身にまとい、決まって午後三時になると和菓子屋の店先をゆっくりと歩いていく。彼は一度も店に入ってくることはなく、ただ歩き去る。その横顔にはどこか物寂しい影が落ちていて、瑠璃の胸の奥で何かがチクリと痛んだ。
「いらっしゃいませ!」と声を掛けると、彼は立ち止まり、まるで初めて気づいたかのようにこちらを見た。大きな眼鏡の奥には、どこか疲れた目が潜んでいる。
「こんにちは……ずっとここを通りかかっていたんですけど、入ってみる勇気がなくて。今日は、思い切って。」
声にはかすかな震えがあった。瑠璃は穏やかな笑顔を浮かべ、丁寧に頭を下げる。「ようこそ。今、秋限定の柿羊羹ができたばかりです。お一つ試してみませんか?」
彼は少し躊躇した後、小さく頷き、瑠璃が差し出した一片の羊羹を口に運んだ。その瞬間、彼の顔がわずかに緩んだのを、瑠璃は見逃さなかった。
「美味しいですね……でも、この味、どこかで……」
「どこかで、ですか?」
瑠璃の問いに彼は目を閉じ、記憶の奥を探るように沈黙した。次の瞬間、ふっと目を開けると、小さな微笑を浮かべた。「いえ、なんでもないです。ありがとうございました。また来ます。」
彼はそのまま、店の外へと静かに出て行った。その後ろ姿を見送りながら、瑠璃の心には説明できない違和感が残った。なぜ彼の声や仕草、羊羹を食べたときのあの表情が、こんなにも自分の心を掻き乱すのだろうか。
店に戻り、再び手を洗いながらふと気づく。彼が羊羹を口にした瞬間、どこか懐かしそうな瞳をしていたことを。まるで、遠い昔に置き忘れた思い出の欠片を見つけたかのように。
瑠璃は首を傾げ、そっと自分の両手を見つめた。その日から、彼のことが頭から離れなくなってしまった。
つづく
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よろつよ