贅沢と行楽 1
A.日常性の分析
1.可算性
日常的な在り方、我々がさしあたりその場所にいるような領域における我々の在り方について考察するのであれば、それは、我々自身を、資本主義の機械的な無限反復のうちで等質化された非人間的事物へと解消し続けるような傾向性を、本性として有する存在であるということができる。このような傾向性は、重力が物体に固有の質量に対して、いかなるほどの力であろうとも、必然的に物体に働くように、我々自身の存在に対して必然的に働くものである。(注:この「重力」の理解は、表層的な物、あくまでも一般的理解としてのみ把握されたい。)我々はこのような傾向性を、それが見いだされた領域であるところの「日常」との関連において、「日常性」と呼ぶこととする。
ところで、我々がこの日常性、我々自身についての在り方についてを考察するにあたっては、我々の存在がそれとして、日常的存在として存在しているような領域、つまり日常界の考察において、その特性、「日常性」についてを考察しなければならない。
日常性とは、いかなる規定においてそうであるような特性であるのか。端的に言えば、それは「反復によって我々を規律化するもの」、あるいは「反復によって我々を可算化するもの」である。
ここで我々は「可算」と「不可算」という対の概念を導入する。この概念における「可算」とは、ある連続的に変化するような事物に対して、それが比例的で予測可能な変化をするものとして取り扱うことをいい、数量での計算が可能であるかそうでないかについてのことを指すのではない。
かかる可算概念が果たす役割は、日常性の分析において不可欠である。可算的に我々のそのつどの存在が取り扱われること、そのことがまさに、反復における我々の規律化を成立させる規定である。
さて、可算的に我々のそのつどの存在が取り扱われる、というのは、我々がまさにそこで存在しているような仕方が、予測可能で比例的な「勘定」によって取り扱われること、我々の連続的、持続的な存在の仕方が、それぞれにおいて、質的に無変化な量的変化として取り扱われることをいうのである。我々は「日々を重ねる」という言葉遣いをすることがある。この言葉遣いは、本来的には「我々がそこで滞在する(存在し続けている)領域にある限りにおいて、その領域と我々とが関わりあうものの内容が、つど変化していく」というような意味において、つまり、我々は全く同等で同質の瞬間を体験することはできない、我々は全く同じ体験をすることはできない、という意味であるが、一般的に用いられるところの意味では、それは全く同じ体験を無限に反復するという意味として用いられている。
かかる同等の体験の無限反復として、我々のその都度の存在の変化が取り扱われているということは、それがまさに比例的な、AとBの関係、この場合であれば我々のそのつどの存在と、それがつど存在している領域の関係において、A、あるいはBの項が2倍、3倍と変化していく、全く等間隔=質的に無変化な量的変化として変化していくにつれて、B、あるいはAの項も2倍、3倍と変化していくようなものとして扱われていることをいうのである。これがまさしく、日常性の最も本質的な規定であるところの可算性についての規定である。
かかる可算性は、いかなる形で我々の生活に関与するのか。端的に言えば、それは「予定」や「計画」、あるいは「予算」、「家計」諸々としてである。少なくとも、本来的に、我々一人一人にとって、未来とは予言不可能である。量子力学や計算機科学、あるいは幾何学、数学において、未来がすでに確定的であるという見解が一般的なものである、あるいはそうなったとして、我々一人一人にとって、そのように確定した未来を知るというのは難しい。(注:これは、我々が共有しているところの「未来の予言不可能性」とは、科学的、数学的次元におけるそれとは無関係な、純粋に日常的な(それこそ非学問的な)ところでの未来についてのものである、ということを意味する。)ところが可算性、日常性における可算性は、このような予言不可能な未来を、形式的に、いや、既に形式性を超えて、デ・ファクトのものとして、すでにつねに予言されたところのものとして取り扱うことを可能にするのである。このような、予言されたものとしての未来が我々に関わるとき、それは、例えば、「〇日後に友人と会う」だとか、「堤防を〇〇年までに建設する」だとかの「予定・計画」として現れるのである。「予定・計画」で言えば、我々はそれの「延期・中止、縮小・中断」を余儀なくされることがある。というより、実際のところ、我々は、計画を計画通りに実行することなどは不可能なはずなのである。計画された時点で、我々によって予測された未来などは、ちょっとした予想外やちょっとした判断ミス、ちょっとした無配慮などで簡単に意味をなさなくなる。そのような意味をなさない未来の予測、そのようなちょっとしたことで意味をなさなくなるような未来の予測に基づいた計画などを、十全に遂行することなど、土台不可能である。そして、計画というのは本来、常にそのようなものとしてのみしか成立しない。なぜならば、未来とは予言不可能なものであって、計画において我々は、それを日常性において、可算的な、予言可能なものとして扱っているが故なのである。
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