ステレオタイプなカテゴライズは無意味で悲しい
先日のエントリーで、私が本当は家事が嫌いだったという旨の記事を書いたところ、海外在住とおぼしき人から繰り返し「日本人の家事のレベルは低い」というご指摘を受けた。なんでも、その人が住む場所では日本人の家事能力は世界的に見て劣っているともっぱらの評判らしい。まあ、世界は広いので、外国人の中にはそういう考えを持つ人もいるだろうが、その論調に同じ日本人であるはずの人が120%迎合していることに驚いてしまった。日本人としての誇りはないのだろうか?
おそらく、ベテラン主婦であるはずの私の家事能力を疑い、家事が嫌いと臆面もなく言ってしまう厚かましさが、きっと真面目なその人の目には「日本の恥」と映っただろう。だとしたら、それは大変申し訳ないことをした。もちろん、その発言主にではない。私のnoteが原因でインターネット上で侮辱された全ての日本人に対してだ。
SNSでは水掛け論になると思い敢えて言及を避けたが、日本人の家事能力は世界最高水準ではないにせよ、決して世界的に見て低い水準ではないと思う。それは手前みそではなく、事実として言っている。現に、羽田空港のカリスマクリーンスタッフや新幹線の「お掃除エンジェル」が家事で培ったお掃除技術を磨いた結果、世界的に評価されている。
「木を見て森を見ず」という言葉は直近のエントリーにも書いたが、その言葉は異文化間のコミュニケーションにも当てはまる。
これは私たち自身もよく犯す過ちなのだが、ごく一部の(自分にとっての)外国人を指し、「だから〇〇人は~」などと勝手にカテゴライズするのは無意味だ。なぜなら、同じ人種、国籍、言語圏の人でもそのキャラクターは人それぞれで、到底カテゴライズできるものではないからだ。だからもしそんな風に一括りで考えたら相手に大変失礼なことになる。
私はたった2年間夫の転勤に伴い外国に住んだだけだが、実際に現地の人と接してみると、本当に色々な考えの人、色々なキャラクターを持つ人がおり、それまでその国の人にステレオタイプな偏見を抱いていた自分が恥ずかしくなってしまった。世の中とはかように多様な面を持っている人がいるのか? と目からウロコが落ちた思いだ。
また、私と接した現地の人の中には、私の中にステレオタイプの日本人像を多少投影していた人もいて、時には偏見に満ちた言葉も言われた。しかしながら、お互い先入観を取り払う努力をしながらストレートに互いの思いをぶつけあうことにより、相手は私自身の個を認めてくれ、私も相手の個を受け入れた。そのことから、自らの先入観を取り除く努力を続ければ、異文化間ギャップは取り払われていくものだということも実感できた。 だから「〇〇人は~」と一括りにすることがどれほど無意味で馬鹿げたことであるかは、私自身がよく知っているつもりだ。
そのような経験をしているからこそ思うのだが、同じ日本人でありながら、頭から「日本人は家事能力が低い」と言う現地の人の言葉をうのみにし、あるいはごく一部の現地在住の日本人像を垣間見ただけで「日本人は劣っている」と一括りにして母国の人間を貶める行為にはひどく違和感を覚えるのだ。大変失礼ながら、日本人を嫌う人が多い海外に長くお住いだと、その人自身まで日本を嫌いになるのだろうか? というのが正直な感想だ。
ただ、私が住んでいた土地では日本人の家事能力を高く評価している人が多かった。特に「日本人は家の中をいつもきれいにしているので家を貸すなら日本人が良い」というオーナーが数多くいたのは事実だ。おそらくところ変われば人の評価の基準も変わるということなのだろう。このように、世界には日本人に好感を持って下さる人も数多くいる、ということはぜひ言っておきたい。
国が違えば考え方も違う。しかしものの考え方は同じ国の人でも一律ではない。到底「〇〇人は」などと一括りにできない。だから何度も繰り返し言うが、ステレオタイプなカテゴライズはナンセンスだ。どこの国の誰が相手であれ、そのような愚かで失礼極まりない一括りは慎むべきなのだ。それは同胞である日本人に対しても同じだ。
海外に出たとたん、あまりの異文化間ギャップにショックを受ける。それを乗り越えるためには偏見など心の垣根を全部取り払う必要がある。素の状態でその国や現地に住む人々はもちろん、自らの母国日本を冷静な目で見つめ、その違和感をも受け入れる、そんな文字通りのグローバルな考え方が求められる。それができない人が無意味なヘイトに走ったり、戦争を起こす原因を作るのではないだろうか? ぜひそのような偏った考えは慎むべきだ。
ただ一方で、日本人としてのアイデンティティまで捨てて現地の人に迎合することもない。現地でのルールを遵守しながらも日本人らしさを捨てててはいけない。でないと海外では自分のルーツがどこにあるのかすら見失ってしまう。それを私は海外在住中に出会ったその種の日本人を見て痛感し、自分は日本人としてのアイディンティティを失ってはいけないと危機感を覚えた次第だ。
なにはともあれ、変に自分の考えにこだわらず、かといって自らを失うことなく、これからの国際化社会を生きていきたいものだ。