母に捨てられた男。

母に捨てられた男。

寺山修司という青森県出身の劇作家が書いた芝居をはじめて観た。
その芝居は、「母」をひたすら追い求める少年の話だ。

亡くなった母への息子の執念が芝居に濃密に現れていた。
はて、寺山修司は母がいなかったのだったっけ? と不思議に思った。いや、母はいたはずだ。

それで、母に対しての強い愛情があったのかもしれないと思った。人にもよるけれども、男性のなかには母のような包み込む愛情を求めている人がいる。それに触れると、彼らの心はとても柔らかくなるような気がする。それは一つに、やはり男性は強くあって、女性を守り、泣いてはいけない、などと言われてきたこととも関係するような気がする。やっぱり戦い続けると、人は疲れる。

でも、寺山修司の母に対する想いというのは人一倍だろうと思った。それは、このエッセイで「人の母を盗む」といった話をしていたからである。

それで、読みかけていたこの本を読み進めることにした。そうしたら、寺山修司は捨子になっていたということが明らかになった。

さらりと書いているけれども、それは相当な哀しみだったようで、母が去っていった後の家で母の髪の毛を拾っていじっていたようである。それくらい彼が傷つきやすく感受性が強かったということを意味する。

それくらいの執念があるから、濃密な空気をまとった芝居ができたのだろう。芸術というのは、ときに執念の塊でできあがるから。

母の亡骸を見た画家が、のちの作品で女性の顔を描かなかったでしょう。あれは、母の亡骸を見たときに顔に何かが巻かれた状態だったからだという。

彼らは、自らの傷を癒すために書いた / 描いたといえる。
芸術家がみなそうだとは限らないかもしれないが、彼らの生生しい傷を眺めていると、目を覆いたくなる。彼らを救ってあげてと言いたくもなる。

私も傷を癒すがために書き続けていたことがあるけれども、その一部はこの世から抹殺し、一部は自分の目に触れないようにどこかに隠して、在り処も自分の記憶から抹殺しているので、まぁ相当嫌なことだったのだろう。

ただ、このような激しい痛みというのは、金では買えぬ貴重な経験である。最も、トラウマという余計なものがついてくることもあるが。

寺山修司の話に戻るが、春本(現在でいうエロ本)で、彼は自分の母の名前を充てて読んでいたようだ。だから(?)寺山の芝居で青年が継母に対して不器用な愛情を持っているのか…と腑に落ちた。

それで、寺山は自分の生い立ちを書いたあとに、このような指摘をしている。

“兄弟 が いっぱい い ても 精神的 な 離乳 の おそい 人 たち、 というのも また 運動家 の 学生 の 中 にも 一杯 い ます。(寺山, Kindle Locations 114-115).”

“母 一人子 一人 という 場合、 とくに 子ども の 方 に 精神的 弱 さを もっ た もの が 多い、 と フロイト は 書い て い ます(寺山, Kindle Locations 115-116). “

でも、寺山は、”親から精神的に自立することの大切さ” を説く。彼自身が、母に対して執着心を持ち、それを乗り越えたからこそ言えることなのだろう。とても重いメッセージである。

そして、さらにはこう説くのである。

“(親および離婚した配偶者と)一度 縁 を 切っ て しまっ て、 親 に かわっ て、 恋人 か 奥さん と、 新しい「 愛情」 を 育て て ゆき、 それから ふたたび 親 に、 こんど は「 親 にたいして の 友情」 という 新しい 関係 を もて ば いい (寺山, Kindle Locations 123-124).”

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