深刻な身体症状の苦痛そのものは、フェルトセンスではない。

フォーカシング(体験過程理論)でいう「身体(からだ)」というのを、生理学的な意味での「身体」と同一視してはならないのは確かだか、ロジャーズの人格理論でも「『有機体的』経験」だとか「内蔵感覚的」という言葉を敢えて用いていた。

だが、苦痛な「身体症状」そのものはフェルトセンスではない。

まずはそういう身体の苦痛の存在を自分のなかで穏やかに受け止めるために、そういう身体の苦痛が広がって来ていない、ニュートラルな、あるいは楽でいられる身体の部分がないかどうかを探してもらい、そちらの方の感覚をまずは味わってもらうというのが私の技法的定石である。

それをすると、あたかも全身を巻きこんでいるかに思われた身体の苦痛が「局在化」された形で感じていただけるようになることも多い。

そのようにしてできた身体のスペースに、改めて「今の自分をOKでいされてくれないものがあるか?」とじっくり問いかけて生じてくる、曖昧なモヤモヤがフェルトセンスだともいえる。

なお、このやり方の元ネタは、メアリー・マクガイアという人の抑鬱状態にある人への事例に書かれている"solid place"(確かな居場所)が自分の内側に探せばある、という示唆に拠るものだが、セラピストとの安全な関係性があってはじめて可能なことだから、ひとりだけで真似しない方がいいです。

なぜこのことを強調しておくかというと、身体症状の苦痛や深刻なうつ感情それ自体をフェルトセンスと「混同」してフォーカスしてもらうと、症状の悪化を引き起こす場合もあるからです。

まずは身体の中に、症状の苦痛が及ばない「安全地帯」があるという、確かな実感も感じてもらえている必要があるわけです。

実は、この、身体症状や重いうつ症状「それ自体」は、直接フォーカスしていく対象ではない、ということに無自覚なままでの施行がままあることが、現場臨床でのフォーカシング技法に対する信頼を損ねてきた大きな要因のひとつ、というのが私の推測です。



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