私の「ふつうの相談」・・・「統合的」を通り越して、「普遍的」心理療法、というものは存立可能か (増補版)
さて、前回に引き続いて、いわゆる、心理療法の「折衷」という言い方への私の批判についての論考、全体で三部作となるものの中編に進もう。
前回はこちら:
私は、心理療法の「折衷」という言い方を好まない。
そんな安易に、各心理療法の「いいとこ取り」をして、うまく使い分けるなどということができようか。
仮にできたとしても、底が浅いものではないかという懸念がどうしてもある。
■「心理療法」とは「技術(technique)」=マニュアル化可能なものなのか
ハンガリーの科学哲学者、マイケル・ポランニー(ポラニーとも。ハンガリー語では、ポランニュイ・ミハイー)は、「暗黙知の次元」という著作の中で、「技術(technique)」と「技能(skill)」を峻別している。
端的に言えば、「技術」とは、標準化されたマニュアル化可能なものである。
それに対して「技能」とは、マニュアル化できない領域のものである。
ポランニーは、後者のことを、身体を通した「潜入(dwell in.ドイツ語で言うIndwellung)」による「習熟過程」が必要不可欠である、と述べている。
これはどういうことか、わかりやすい例をあげよう。
例えば、ピアノの演奏を、一回めから誰でもできる「マニュアル」というものは成立可能であろうか?
答えは、言うまでもなく、否である。
最初はスケール(音階)の練習からはじめて、次に「バイエル」の諸曲を、平易なものから順に進み、それから「ツェルニー」という教本に進むというのが、少なくとも日本における、ピアノ演奏を、徐々に「身につける」ための方法であった。
最初は、思ったように指が動かないのは当然である。
動いたとしても、たどたどしく、ミスタッチを限りなく繰り返しながら、時には何週間もかけてではないと、流ちょうに演奏するように、一曲は身につかない。
これは車の運転でも同じである。
教習所で、徐々に実地訓練をするプロセス抜きに、一回「運転マニュアル」を読めば運転できる、ということはあり得ない。
スポーツの動作も同様だし、パソコンのブラインド・タッチなどもそうであろう。
「頭で」学べるのではなく、「身体で」徐々に身につけるしかない。
そうやって「習熟」してくると、これらの「機械」や「スポーツ」の動作は、半ば無意識化される。意識的にコントロールしていると言えるのは、ポイントポイントとなり、「身体の力を抜いた」状態で可能となる。
初代「機動戦士ガンダム」や「エヴァンゲリオン」の第1話をご覧になればわかるように、アムロ・レイや碇シンジは、マニュアルを読むだけで、かなりもたもたしながらではあるが、ロボット(エヴァはロボットではないが)を「操縦」できてしまう。
しかし、これはフィクションの世界だから可能なのであり、現実にはあり得ない。
彼らが「ニュータイプ」だからこそ可能なのである。
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さて、いわゆる「心理療法」においては、「技法」という言葉が使われる。
これは、前述の「技術」「技能」という言葉に対して言えば、極めて曖昧な概念である。
果たして、「技法」は、標準的なマニュアルで「頭で」学べるものなのであろうか?
答えは否である。
心理療法の「技法」は、「身体で」徐々に「身につける」訓練過程が必須である。
具体的には、まずば「ロール・プレイ」や「教育分析(教育カウンセリング)」の過程を経る必要がある。
ただし、ロール・プレイは、どこまで行っても「模擬面接」であり、それだけで、カウンセリング現場で通用する、柔軟な応答には到達できない。
「教育カウンセリング」は「ケース・スーパーヴィジョン」とは異なり、自分自身が、情け容赦なくクライエントになって、自分の悩みや人生上の課題を解決していくことである。
後者によってはじめて、カウンセラーは、自分の性格や行動が変化して行き、自分のクオリティ・オブ・ライフが変革していくという、確かな手ごたえを「体感」することができる。
これは、単に、カウンセラーのパーソナリティに未熟で、不健康な面があるままでは、クライエントさんの未熟で、不健康な面を改善に導けず、むしろ面接過程が堂々巡りするばかりか、場合によっては、症状を悪化させ、どうしようもなくなるという問題だけではない。
心理療法の「技法」なるものが、もともと、単なる「技術」ではなくて、身体で覚える「技能」という側面を、多大に持っているということに他ならない。
ただし、「教育カウンセリング」というシステムには、2つの大きな弱点がある。
ひとつは、時間とお金がかかるということである。
もうひとつは、指導者の人格が実は未熟で、特に、支配的であった場合には、訓練(というより、ホンモノの心理療法)を受けるうぶなカウンセラー志望者は、「精神操縦」(いわば、精神的な「生体解剖(vivicection)」)を受けて、ボロボロになるか、仮にそこからsurviveできても、指導者のただの「操り人形」になってしまうという問題があるからである。
教育カウンセリング指導者と訓練生の関係は、訓練を受けたカウンセラーとクライエントの関係の「写像」となる。
すなわち、例えば、カウンセラーの指導者が、家父長的な精神的虐待といっていい関係しか訓練生と持てないとすれば、訓練を受けたカウンセラーは、クライエントさんに対して、絶対君主となり、精神的トラウマを与える存在になってしまう可能性が高い。
そこまでいかなくても、カウンセリング指導者に対して、「いい子」でしかいられなかったカウンセラーは、クライエントさんを、自分にとっての「いい子」にしてしまう。
これでは、クライエントさんを「自立」させる形でカウンセリングが終結することには至れない。終結したかに見える場合でも、実は「偽りの終結」であるに過ぎない。
しかし、こうした、コストと精神的被害の可能性を考慮に入れても、教育カウンセリング抜きで、ただの習い覚えた「技術」として、クライエントさんに「心理療法」なるものを受けさせていいかどうかとなると、大いに疑問があるというのが、私の意見である。
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だが、私は更に踏み込んだことを言っておきたい。
その技法を、教育カウンセリングで「受け身に」体験するだけではダメのだ。
自分の行なおうとしている心理療法の技法を「自分自身に」適用してみて、自分の積年の悩みや症状が改善し、変化や成長が生じたという確かな手ごたえを得られたこともない人間が、その技法をクライエントさんに適用してはならない。
日頃から、「自分」で「自分」に適用することまでしないと。
このことを経ずに、実施する側として、「技法」だけ学ぼうというのが、どれだけ、クライエントさんに「畏れ多い」ことかを、自覚して欲しい。
伊藤絵美先生なんて、毎日、自分で自分のためにスキーマ療法やっているようである。
あるいは、わかりやすい例で言えば、日頃から、「自分のために」箱庭をいじっていない「箱庭療法」の使い手って、信頼できるだろうか?
もちろん、これだけで「十分条件」とはいわないが、「必要条件」ではあると思う。
客観的に知的「にも」技法を学ぶ必要性は否定しないし、第3者の、いろいろな「症例」で技法適用を学ぶことも、もちろん大事だ。
ただ、それだけではダメなのだ。
敢えて言うが、自分の精神状態が「最悪の」時に自分で自分に適用する「実験」を敢えてしていくこと。
これをすると、その技法を、どのように「創意工夫」すれば、幅広い層の状態のクライエントさんに、どの程度まで可能か(行うべきでないか)がどんどんわかってくるから。
客観的な、第3者からのスーパービジョンを受けていることも、もちろん大事だと思う。 でもそれ「だけ」でいいとは思わない方がいいと。
スーパーバイザーの言うことに違和感があれば、自分の実感を信じて、自分の道を進む方がいいと思う。
スーパーバイザーだって、完璧ではないし、迷いに迷った上でなら、自分なりにやってみて、それから軌道修正するのでも遅くない。
取返しのつかない過ちになることはまずないと思う。
手術をする外科医ではないのだ。
それどころか、クライエントさんと「一緒に」試行錯誤することは、大抵生産的だ。
結局、
私の心理療法訓練についての考え方は、エビデンスのある「標準的な」技法を「客観的に」学べるというとらえ方へのアンチテーゼにもなっている。
なるほど、大筋では、技法の手順の「あらすじ」があることは否定しない。
しかし、そこから先は個々のセラピスト自身のパーソナルなカスタマイズだ。
そういう「カスタマイズ」は、決して「自己流」に歪めるということではない。
「既製服」を自分の体形に合わせて縫い直し、フィットさせた時、最高の「効果」を発揮すると考えられまいか?
ブロスポーツ選手の使う用具は、皆「特注品」の一点ものではないか。
まとめて言えば、
心理療法家になるための訓練としては、
①スーパーヴィジョン
➁教育カウンセリング
が重視され、2つの柱のように言われて来たのに対して、
③技法の、自分での自分自身への適用
を、同格のものとして重視すること
を私は提案したわけである。
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少し前の箇所に戻ろう。
身体で覚える「技能」としてカウンセリングに習熟したカウンセラーは、意識的に「考えて」、技法の段取りを意識しながら面接する度合いが減少していく。
面接過程そのものが、要点要点での自己点検を除けば、しなやかで柔軟な「無意識的」相互作用の域に到達してしまう。
これは、心理療法の中ではもっとも知的といっていい面がある精神分析においても真実であろう。
「転移」とか「防衛機制」とか「解釈」とか「直面化」とかを意識して面接しているうちは、まだまだ未熟なのであり、そういう段階を超越してしまえば、あたかも「ふつうの対話」をしているかのような面接になるはずである。
正直に言って、この段階に到達している、精神分析の指導者には、なかなかめぐり会えないであろう。
これは、(私なりの理解では)ビオンの言う、
「記憶なく・欲望なく・理解なく」
の境地であると思われる。
これは、私の準拠するフォーカシング技法においても同じであり、フォーカシング技法を、クライエントに対して、あるいは自分自身に対して、あたかも「条件反射」のごとく、しなやかに、流れるように面接過程で、無意識のうちに用いることができる段階に達して、はじめて治療的になると、私は考えている。
フォーカシング技法を、クライエントさんに「学んで」もらおうとすることが、現場臨床では、なかなかうまくいかないことは、フォーカシング流派のカウンセラーなら、誰もが、嫌と言うほど知っている。
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さて、こうした、特定の流派の技法体系を、身体で、ほとんど無意識的に相互作用できる「技能」の境地にカウンセラーが達すると何が生じるか?
ふつうに考えれば、その流派の技法に「凝り固まって」しまいそうである。
どころが、現実に生じるのは、まるで逆の現象である。
そのカウンセラーは、技法から自由になる。
あたかも「ふつうの面接」をしているだけであるかのように見えるようになる。
そして、最初にどの流派をオリエンテーションにしていたかに関係なく、ほとんど「普遍的な」カウンセリングの境地に到達する。
(当初出発した技法の「フレーバー」は残存していると思うが)
「登山口は別々でも、同じ頂に達する」(河合隼雄)
ということである。
それどころか、その頃には、狭い意味での「心理療法」の枠組みを超えたtreatment・・・すなわち、クライエントさんとの「合意形成」からはじまり、アセスメントやアドバイスやコンサルテーションに至るまで、しなやかに面接過程に「統合」され、いわば全部「草書体」の筆使いになってしまうのである。
ここまでくると、実は、自分の準拠していた流派以外の流派の技法に新たに接した際に、すみやかにそれを理解できてしまい、その時点で、臨機応変に、自分の面接過程に取り入れて「しまえる」。
これはもはや「折衷」などという、浅い次元での不器用な「使い分け」ではない。
ここまでくると、もはや心理療法の「統合的」活用・・・という域すら超えて来る。
ほとんど「普遍的」心理療法・・・正確には、普遍的な「人との関わり」の状態に到達することになる。
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ここまで来てしまえば、更に凄まじいと言える境地に「突き抜ける」。
密室での心理療法的面接場面だけではなく、日常生活におけるすべての対人関係が、まったく無理をしなくても、therapeuticになってしまうのである。
配偶者とも、子供とも、恋人とも。
それどころか、お役所でも、お店のお客さんとしても、経営者、上役としても、雇われ労働者としても。
そんなの「人工的」パーソナリティーだろ、そこまでやったら本人は息苦しいだろ、と思われるかもしれない。
ところが、実際は逆である。
これほど快適で、省エネで済むライフスタイルはない。
ストレスを感じる場面が最小になり、接する人の一番健康な部分を引き出し、コミュニケーションは楽になる一方である。
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ここまで来ると、「達人」の境地過ぎるだろ、一部の才能に恵まれた人だけだろと言われるかもしれない。
それば、半分あたっていると思う。
ここまでたどり着けるのは、カウンセラーの中では「貴族」かもしない。
しかし、そういう「貴族」が、ピラミッドの頂点にいないことには、カウンセラー教育の「裾野」も広がらないのではないか?
こうした人たちは、自分が苦労に苦労を重ねて今の境地に至ったのだから、カウンセリングの勉強を始めたばかりの人が、どんなところで躓き、どこで苦労するのかをわきまえている。
この稿の最初で、カウンセリング技法は、標準化されたマニュアルで学習可能な「技術」学習ではなくて、身体で習熟する「技能」だと述べたが、そうであっても、小刻みなステップを踏んで少しずつ段階を追って学んでいくための「マニュアル」を作成不能ではないと思える。
そうしたマニュアルの作成者、あるいは監修者に、そうした「達人」の域に達したカウンセラーは、なれるのではなかろうか。
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実は、こうした私の問題意識の萌芽は、実は20年ほど前に草稿をブログですでに書いていた「若き臨床家のために」ですでに述べている。
非常にわかりやすく書いたつもりなので、興味のお持ちの方は、お読みいただきたい。
さて、これに続いて、「ふつうの相談」そのものを読んだ後で私の中に生じて来た「自由連想」を、敢えて散文的に書いてみることにします。
更に「ふつうの相談」実際に読んだ上でのダイレクト直球のレビュー、やっと書きました!!
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