「西梅田こころとからだのクリニック」放火殺傷事件に思う
もとよりこうした放火殺傷事件の犯人は法のもとに裁かれるべきですし、被害者の方にはお悔やみ申し上げますとともに、幸い怪我ですんだ皆様に、身体の障害のみならずPTSDが残らねばいいがと案じております。
現時点ではまだ情報不足です。しかし敢えて10歩ぐらいまで先回りして、以下のことを述べておきたいと思います。
多くの病院は忙しいでしょうから、特別なことを訴えたり、面接予約時間以外に助けてくれと言われたり、書類申請とかでせっかちになる患者さんにぞんざいになりがちということには同情してもいいかと思います。しかし、そういう「特殊」ケースへの「危機管理」対応スキルこそプロの領域かとも思います。
援助的専門家には、自分に従順な患者以外には、ひどく冷淡な態度を取ることがあることが少なくないのが現実です。自分があがめたてられる教祖様になってしまうことの弊害に無自覚なのです。
むしろ「おとなしくしない」患者等との出会いこそ、治療者が成長する機会なのに。今回はこういうケースである可能性も捨て切れません。
精神科医をはじめとする援助的専門家は、仮に善意の人であった場合すら(!!!)、自分が多くの人から慕われるようになればなるほど、自分の「影」が深くなることに非常に警戒すべきと思います。無意識に生じる「傲慢」の業(ごう)がいかに深いか。
今回の心療内科医が全くの善人であったと信じることとしましょう。しかし、唐突な連想ですが、#親鸞 の「善人なおもて往生す。ましてや悪人においてをや(#歎異抄)」。悪人のほうが自分が悪いと自覚しているから極楽浄土に近いと親鸞は訴えたわけです。善人が浄土に行くのはもっとたいへんなんですよ。
援助的専門家というのは、自分が人に「救って」欲しいから、患者さんとかに「癒やされ」「救われる」ために、そういう商売を選んだ可能性に自覚的であるべきです。自分が「救われて」おいて、金「もらう」立場にすらなってることがどれだけ「罪深い」か。
敢えていいますが、大学のセンセーとか病院勤務の援助的専門家は、自分が患者さんやクライエントさんや利用者さんに「食わせてもらっている」という立場だという「基本的構造に」一層無自覚かも。「お客様」に「救われ」、あがめてすらもらえるというのがどれだけのことか。けなされてナンボの立場。
そもそも多くの患者さんは、精神科医と接する際に、「精神科医の」機嫌を損なわないために、自分のできる範囲で、それはそれはものすごく「気をつかって」いるわけです。言いたいことの半分も言えていない。そのことに精神科医がどれだけ「助かって」いることか。
その道の専門家というのは、自分の能力にプライドと責任感を持つ一方で、自分が新たに遭遇する情報や事象や相手には、自分が実は全く無知で、これまで積み上げた能力や知識や能力が、通用しないか、弊害をもたらす可能性に開かれた姿勢を持つべきでしょう。
およそ何かを「やりがい」「生きがい」にした場合、その分だけ誰かを(何かを)「搾取」し「隷属させて」いる可能性に自覚的であるべきでしょう。ボランティアでも趣味でも同じことかと。
少なくとも、日本的な意味での「謙虚な腰の低さ」って、実は厄介な人を引き寄せ、トラブルの種にはなると思います。
このお医者さん、自分で引き受けきれない要求まで引き受けようとしてしまったのではないか?・・・というのが私の勘です。
そして、日本的な意味での「謙虚な腰の低さ」を持つ人って、実は接する相手にすごくプレッシャーを与え、言いたいことを言えなくしてしまう気がします。自分を殺した分だけ、相手も自分を殺すわけです。
自分が謙虚であろうとする人って、その態度を示すことで、相手を「統制」しようとしている面があることが多い気がします。そういう「謙虚な」人に、あけすけに言いたいこと言える人は少ないと思います。「処世術」にはなりますが、援助的専門家としてはそれだけではマズイ気がする。患者を萎縮させる。
情報不足の現段階で、このお医者さん個人を責めるつもりはないのですが、「謙虚な腰の低さ」と、無理なことは無理と相手に伝える力、そして、ある種のネゴシエーターとしてのしたたかさは、みな併せ持つ必要があると思います。
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