言葉って何だろうか
Twitterは不思議だ。
私はTwitter歴12年で、気が付くと随分前からTwitterが生活に溶け込んでいると思う。
とは言ってもそこまで濃いTwitter歴では無くて、一時期はやったclubhouseや先日あることに気が付いたグループに入る訳では無い。
ただこのコロナ禍から、ラジオを聞くことが増えてハッシュタグを付けてラジオを聞いている。
主に聞くのはTBSラジオ。実は日天やTBSラジオではないが、ANN星野源の曜日等は偶に聞いていた。しかし、コロナ禍からテレビのワイドショーなどから情報過多となり不安で、疲れてテレビはもういいや(ワイドショーもういいや)となったので、偶然出会ったのがラジオであった。
ラジオは身近に寄り添ってくれる気がする、不思議なメディアだ。
またハッシュタグを付けて呟くと、ラジオリスナーたちが声をかけてくれたり、いいねを押してくれるし、スペースなんぞに参加して、全く会った事無い方々と仲良くなった(と思ってる)。
コロナ禍は嫌な事ばかりで、息子は丁度大学受験生だったので、受験生→大学生(オンライン)、おまけに受験は本人も私も希望の学校から程遠く、メンタルもボロボロだったのに、弱り目に祟り目とはこういう事を言うのだなと思って神様を恨んだ(子どもの大学キリスト教のプロテスタントの大学ですが)。
またコロナの報道は悪いことばかり報道されているような気がして、信じられなくなったので、もうワイドショーやニュースを見たくなくなった(逃避したかった)。
そんな時でのTBSラジオ『荻上チキのsession22』で聞いた新型コロナについての情報で、テレビのように煽ることはなくて(全てが正しい?とはいいがたかったけど)少しずつ安心していった。
ハッシュタグを付けたり、ハッシュタグで検索すると同じように感じていたり、反発してる呟きが見受けられて、「ああ、私だけではないのだな」とも思って、ハッシュタグを付けて呟くことが楽しくなった。
足が元々悪くてリハビリに通ってたし、3年前の脳出血の発作で、右半身の感覚異常で、着地の感覚がおかしくなってしまったので、在宅ワークをずっと続けていたこともあり、ずっと家からでない私にTwitterは濃いものとなっていった。
繋がる事は、面倒くさいと思うことも無い訳ではないが、それでもいろんな人の意見や反論がレスされたりすると、ムカッとくることもあるけど自分の幅が広がる気がする。
今では他の番組も聞いてるし、(今も朝でTBSスタンバイというラジオ聞きつつPCを打っている)楽しい。スペースも思い切って参加してみた。フォロワーさんも増えたし、私の発言も誰かに届いている?事が堪らなく嬉しかったり快感だ。
言葉は時に自分の意図した通りに届かない。
でも言葉は言霊で(これは私の母校の國學院大学の折口信夫先生の思想だと思う)届けと念を込めて訴えると、届くこともあるし、心からでた言葉は誰かの胸に響く(その逆に誰かを傷つけることも有る)。
私は、作家でもないしライターでもないしコピーライターでもないけど(ちょっとやってみたいけど)大学で文学を学んできたものとして言葉は大切だと思ってるし、言葉で人に光を与えることも有るし、言葉で人を殺すことも出来ると思っている。
だから、これからもラジオとTwitter等のSNS、そしてこのnoteを使って言葉を綴っていきたいと思う。
何物でもない私ですが、時として何物にもなれるのが「言葉」ですね。