ワークブーツを取り戻す
母はもしかしたら、わたしの心が「女」ではないという事実に、ひょっとしたらわたし自身より早く気がついていたのかもしれないと思うことがよくある。
わたしは髪を短くしたがり、スカートを嫌う子どもだった。わたしに長い髪とスカートは不自然であると思っていたし、ふさわしくないと思っていた。あれは「女の子」のものであり、「わたしのもの」ではないと、無意識に感じていたのだろう。
しかし「普通」を望む母にとって、わたしの趣味嗜好は恐怖だったのかもしれない。自分の「分身」であるはずの娘が、自分と全く違うものに興味を持ち、全く違う考え方をし、成長するたび女を拒絶する姿を、受け入れることができなかったのだ。きっと。
中学受験で合格したお嬢様女子校ではちゃめちゃないじめに遭ってわずか3ヶ月ほどで不登校になり、2年生の秋ごろわたしは共学の自由な校風の中高一貫校に編入した。その間わたしは、地元の公立中学に籍だけ置いていたようだ。娘が不登校になった挙句、名門女子校から偏差値の低い(といってもそこまで正直悪くもない)学校に転校するという事実は、両親にとってたいそう不名誉なことだったようで、親戚中に「転校したことは恥ずかしいから秘密にするように」と口止めをされていた。そのため、親戚にはずっとお嬢様女子校に通っているという設定を通し続けた。まあ、20歳を過ぎたあたりで勝手にわたしがバラしたんだけど。
転校先は制服がない学校だったのだが、友人たちの影響でわたしは古着にのめり込んだ。うざったいセーラー服から自由になったわたしの身体は、男の子のような服装を求めた。リーバイスのデニムや、ラルフローレンのコットンニット。ラコステのカーディガンとか、チャンピオンのスウェットとか、そういうものを放課後古着屋に寄り道して購入した。ハンジローやフラミンゴ、シカゴなどの買い物袋を下げて帰るたび、母は顔をしかめた。
高校に上がったころ、わたしの学校ではワークブーツが流行っていた。ドクターマーチンやティンバーランドなどのブランドもののブーツを、古着屋で安く購入して履いている子が多かった。わたしももちろん、欲しかった。けれどわたしの足は22センチしかないため、そもそもメンズのサイズが多いワークブーツでは、気に入ったデザインで自分に合うサイズのものを探すのには難儀した。
ある日、友達とふらりと入った古着屋の片隅のブーツコーナーで、小さなトレッキングシューズを見つけた。深いブラウンの丈夫な革で、ところどころユーズドらしくかすり傷のある、トミーヒルフィガーのものだった。試着をさせてもらうと、そのブーツはわたしの足にしっくりと馴染んだ。たしか1万円を超えていて、少し躊躇ったのを覚えている。そんな大金でこんな「女の子」らしくないブーツを購入したことが母に知られて、呆れられるのが怖かった。母の理想の娘から歳を取るごとに離れていってしまっていることに自分自身自覚もあって、失望されてしまったらどうしようと不安になった。
それでも思春期のおしゃれへの目覚めの気持ちはやはり強く、わたしはお年玉をはたいてそのブーツを購入した。なかなか足に合うブーツを見つけられないとぼやいていたわたしのほくほくとした顔を見て、友達が「サイズがあってよかったね」と同じくらい喜んでくれたのをよく覚えている。
母はやはり、トミーのブーツには顔をしかめた。そんなんどこがいいん、とか、ボロボロやん、とか、みっともないで、とか、似合わへんわ、とか、朝わたしが玄関でそのブーツを履くたびに、ぶちぶちと文句を言った。母の口から漏れた不満は、毎回ブーツにまとわりついてくるようだった。
高校を卒業し、浪人を終え、最初の関西の私大――その後3年次で関東の国立大学に編入する――に進学が決まり、わたしは持っていく服や本の整理をしていた。自分でできる、というわたしの声に母は耳を貸さず、「私がおらんと何もできひんやろ」と言いながら手を出してきた。私物に触れられるのをあまり好まないわたしは、それでも母のことが大好きで、それ以上拒絶することもできずに黙々と作業をしていた。
母の先導のもとに整理が進み、「次は靴やな」と母は玄関に向かった。母の後についていくと、母は靴箱から真っ先にあのトレッキングブーツを取り出した。母は汚いものを触るように、靴のかかとを指に引っ掛けてぶらぶらとさせながら、「これ、もういらんよな」と言った。
母の文句がべたべたと貼り付いたそのブーツを、わたしは次第に履けなくなっていた。購入時より頻度ははるかに落ち、あのときのときめきも薄れていた。それでも、とわたしは言い訳の言葉を探した。しかし母は、わたしの返事を待つことなく、ゴミ袋の中にブーツを放り投げた。
声を出すことができなかった。母はてきぱきと袋の口を縛り、それを持って「ほな捨ててくるわ」と地下のゴミ置き場に向かった。母の背中を、わたしは引き止められなかった。あれでいいんだ、もうすぐ20歳になるんだし、大人になっちゃうから、もう「男の子」ではいられないんだ。「男の子」じゃないのに、あんな靴を履いているのはおかしいんだ。ママの言う通りだ……。
そんなふうにして、わたしは人生でいちばんの高額な買い物を手放した。あんなにときめいたはずのブーツなのに、そのときのわたしにはまだ、ずっと母の方が大切だったのだ。母の存在はわたしにとってあまりにも大きすぎた。母の理想から外れ、母から失望され、母から愛されなくなることは、そのころのわたしにとって人生の終わりを意味していた。
そして今日――日付的には昨日になるけれど、平日休みの友人を誘って原宿のよく行く古着屋に行った。目的は白のTシャツだったんだけれど、今日ちょうどイングランド製のドクターマーチンが入荷したらしく、店先にたくさんのワークブーツが並んでいた。
来年イギリスに行く予定のわたしは、思春期に胸を焦がしたワークブーツを再び欲しいと思っていた。丈夫で肉厚で、手入れのあまり必要ない、雨の日でも遠慮なく履ける、10年前に大好きでしょっちゅう履いていたあのブーツが欲しい。
店員さんに靴が気になる旨を伝えると、わたしの足に合うワークブーツがちょうど一足あると言って持ってきてくれた。80年代ものの6ホールのUK3に足を入れると、10年前のあのときの記憶が蘇った。
10代で、まだ店員さんと会話を弾ませることもできなかったあのころのときめきを、わたしは今日もう一度体験したのだ。深いブラウンの丈夫で肉厚な皮は、あのときと同じようにわたしの足をしっかりと包んだ。1万ちょっとの高い買い物だったが、わたしは迷うことなく自身で稼いだ金でそれを買った。
そのとき一緒に行った友人とは10年近い仲なのだが、わたしが昔ワークブーツを履いていたことを覚えていた。「昔そういうの履いてたよね、懐かしい」と彼女は笑い、わたしは10年前に戻ったような気がしてへへへとブーツを入れた古着屋の袋を抱き締めた。
本当は、昔のあのトミーヒルフィガーのブーツそのものを取り戻したい。でももうそれは不可能だ。あのときのわたしは、わたし自身を優先させることができなかった。あまりにも母が好きで、これ以上母にがっかりされたくないという気持ちが強すぎた。
10年経って、やっとわたしはわたしらしい靴を、誰に遠慮することなく、嫌われることや失望されることを恐れず、履くことができるようになった。わたしは母のためではなく、夫のためではなく、自分のために靴を選びたい。さっきから何度も玄関に行って、購入したばかりのマーチンの革を撫でている。長い時間がかかってしまったけれど、わたしはようやく「わたし」のワークブーツを取り戻すことができた。
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