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碧月はる『いつかみんなでごはんを』〜きっと多くのひとにとって、しにたい夜の灯台になる〜

そのひとのアカウントを見つけたのは、親元を離れてから2年が経った冬のある夜だった。当時のぼくは、20代後半に差しかかりかけていた。

物心つく前から、両親に暴力を振るわれていた。パートナーと婚姻届を出し、都内の実家を出て彼とのふたり暮らしを始め、ようやく安住の地を得た直後、ぼくは虐待の後遺症に苦しめられることとなった。サバイバーの後遺症は多くの場合、渦中にいる瞬間ではなく抜け出したあとに現れる。本書『いつかみんなでごはんを』にも、以下のように記されている。

渦中にいる間は、過度の緊張状態にあるため、どうにかバランスを保ちながら日常生活を送ることができる。だが、緊張の糸が切れた瞬間、抑え込んでいた感情があふれだす。

(碧月 2024: 16)

著者の碧月はるさんもまた、虐待サバイバーだ。元々ぼくははるさんの一方的なファンだったのだけど、現在は親しい友人でもある。そのためこのレビューを書くうえでいかに“普段のはるさん”を排除した純粋な“エッセイストの碧月はる”を語るか苦心したのだけど、書いているうちに諦めた。どちらも“はるさん”であることには変わりない。本書を語るのに“友人であること”がとくべつ邪魔になるわけでもないし。

ただ、友人だからこれを書いたと思われたくなかったのだ。そんなオトモダチごっこをしたいわけでも、義理で書いているわけでもない。純粋にぼくが彼女の熱心なファンであるということだけは、明記しておく。

閑話休題。
一口に虐待と言っても、その実態は多岐にわたる。よってぼくの被害のすべてがはるさんと同じもの、というわけではもちろんない。まったくおんなじ痛みや苦しみは、存在し得ない。後遺症の症状も違うし、現在抱える困難も異なる。それでも、共鳴するところは多い。

フラッシュバックの嵐に呑まれているとき、ぼくはどうしてだかしばしば似た経験を持つひとの語りを求める。なぜわざわざ傷口に指を突っ込んでぐじぐじと掘り返すような真似をせずにいられないのか、正直なところ自分でもよくわからない。しかしそのような衝動に駆られるのは、どうやらぼくだけじゃないらしい。

なぜわざわざ古傷を抉るような類の本を読むのか、そう問われることは多い。だが、うまく答えられた試しがない。論理的な理由などないのだ。ただ、本能が欲する。

(碧月 2024: 106)

はるさんの文章に初めて出会った冬、ぼくはほぼ毎日のようにフラッシュバックに襲われていた。よく力尽きて台所の床に倒れ込み、寝そべったままiPhoneを握りしめてはるさんのnoteアカウントを漁っていた。おそらく#虐待サバイバー だとか、 #機能不全家庭 だとか、そんなタグを辿った末に行き着いたのだろう。当時のぼくの記憶はかなり曖昧なので、初めて読んだ日のことを明確には思い出せない。だが、引き摺り込まれるように、のめり込むように、そこに置かれた叫びを──あるいは微笑みを──スクロールし続けたのは覚えている。

どうやらこのひとは、自分より10ほど年上であるらしい。そしてなんと、子を持つ母親であるらしい。その事実はぼくにとってちょっとした衝撃だった。凄惨な虐待を受けながらもなお生き延び、子を持つ選択をしながら虐待を連鎖させていないだけでなく、深く深く彼らを愛している。もちろん知識としてそういう生き方を選ぶサバイバーがいることは知っていたけれど、生身の当事者が書いたものに触れたのは初めてだった。それゆえ、30歳を過ぎたあとの自分が想像できず、どう生きていけばいいのかわからず、右往左往していたぼくにとって、はるさんの文章は一筋の光だった。

このひとがどのようにして生きることを選択し続け、新たな生命を育んでいるのか知りたい。そうすればもしかしたらこの先、自分もどうにかこうにか生き抜けるかもしれない。このひとを追いかけ続けていれば、いつかは自分が無条件で生きていていい存在なのだと心から思えるかもしれない。そんな気持ちでここまで彼女の文章を読み続けてきた。

だから去年はるさんから書籍デビューが決まったとの知らせを受けたとき、嬉し過ぎて飛び上がった。頑張ってきたことが実を結んだね、よかったね、の友人としてのお祝いの気持ちと共に、ずっと追いかけ続けてきた書き手の単著をこの手に取ることのできる喜びが込み上げた。

『いつかみんなでごはんを』書影。美しいあおいろは、寒色なのに不思議とあたたかみを感じる。我が家の猫エピーと共に。

情報解禁になってすぐに近所の本屋に電話し、予約を済ませた。首を長くして入荷日を待ち侘び、手元に来たその日の夜から翌日にかけて、一気に読んでしまった。

そして打ちのめされた。

これまで読んできた文章や、あるいは直接お話しした中で、知っていたことももちろんたくさんあった。でも、知っているつもりになっていたことも多かった。自らの無知と傲慢さに恥じ入りながらも、もういちど読み返し、さらに今度はじっくり噛み締めながら、合計3回読んだ。心に残った文章のいくつかを抜粋しようか迷ったが、ここではやめておく。内容の詳細に触れることも避ける。ひとりでも多くのひとの手に渡ってほしいから。

読みながら思い出していたのは、はるさんの文章に出会ったあの夜たちだった。頬にぺっとりとひっつく床のつめたさや、乾いてかぴかぴになった涙と涎。あの夜のしにたさの理解者は、はるさんの文章だけだった。はるさんの文章だけが、いい年をしてなお消せぬ母の愛への渇望や、父や弟に抱く殺意を、「幼稚だ」と非難するでもなく「忘れなさい」と諭すでもなく、そのまま肯定してくれた。そしてそれはこの本も、例外ではなかった。

はるさんが抱えている主な後遺症である、解離性同一性障害。はるさんが生きるために産まれたひとたちへの感謝と、葛藤。NOと言えないサバイバー特有の認知の歪み。そして、はるさんをだれより近くで支え続けたパートナーさん(現夫さん)について。はるさんを抱きしめるひとたちとのエピソードや、読んでいるだけで口いっぱいに唾が溜まるごはんの描写。ふたりのお子さんへ惜しみなく注がれる愛情。

過去の被害体験とともに語られるこれらの内容から浮かび上がる“はるさん”というひとは、けっして不幸に満ちていない。絶望と幸福は矛盾することなくひとつの人生に共存する。それをこの本は、読み手にそっと教えてくれる。背を撫でる手のひらのような、やわらかい優しさで。

『いつかみんなでごはんを』は、多くのひとにとってのしにたい夜を越える灯台になるだろう。そういう力がこの本にはある。ぼくもこれから先、幾度も繰り返し訪れるしにたい夜に、きっと本書のページをめくる。

はるさん、書いてくれてありがとう。はるさんが生きることを選び続け、書き続けてくれていることそのものが、虐待サバイバーの救いです。はるさんに、はるさんの書くものに、出会えてよかった。

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伊藤チタ
読んでくださってありがとうございます。サポートはFIP闘病中の愛猫エピーの治療費に使わせていただきます。

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