「女の子」になりたくない

小学校6年生くらいの正月、父の実家に行っていたとき、従兄にお酌をねだられ、それを全力で拒絶したら、父方の祖母に「女の子はやらなきゃいけないの!」と叱られたことがある。
そうしてわたしの中の“正月”は、自分が「女の子」であることの絶望と切り離すことができない存在になってしまった。

年明けから暗い話でなんだかいやな感じだけど、まあ思い出しちゃったんだから仕方ない。
わたしの「女性」性への嫌悪は、主に祖母によってこんなふうにすりこまれていっちゃったんだとおもう。

祖母は典型的な昔の「男尊女卑」の考え方の人間である。
男尊女卑を飛び越えてもはやそれは性差別と言ったほうが近いかもしれない。
「女の子はお酌をしなければならない」という、祖母から突きつけられた言葉にわたしは当時深いかなしみを覚えた。
わたしは「女の子」である以上、「お酌をする/される」の「する」側にいなくてはならないし(というより自動的にそう役割づけられている)、ということはつまりわたしは永遠に補助・介助する立場に甘んじなければならないのかとおもうとひどくやりきれない気分になった。

わたしが「女の子」であることは、ペニスを持って生まれなかったことは、わたしが決められることではないのに、わたしがそう選択したわけではないのに、そう生まれてきた以上、わたしが「主人公」になることは許されない。
しょせん「男の人」の添え物でしかなく、能動的に自主的になにかを考え生み出す役割はいっさい求められない。
それができない「女の子」は、「できそこない」で自分の役割をきちんとまっとうしないただの「わがまま」な子なのだと言われた気がした。

だから当時のわたしにとって、ジブリはずいぶん救いだった。
キキもナウシカも千尋もソフィーも、みんな自分で考えて自分で決めて、自分の愛する人(それが友愛恋愛問わず)を助けに行く「ヒーロー性」を持っていて、強い憧憬を抱いた。
今でもジブリをだいすきなのは、やっぱり「女の子でもヒーローになれる」という希望を与えてくれたからなのだとおもう。
よくディズニー派かジブリ派かで意見が分かれることがあるけれど、この「女性」性の捉え方が両者でまったく真逆なのもその一因なんじゃないかな。
ディズニーの場合、シンデレラや白雪姫を筆頭に、女の子が力を持っているんじゃなく、あくまで受動的に素敵な王子様を待ち、彼らに出会うことによって素敵な自分にしてもらう。
だけどジブリの場合は、たとえば『耳をすませば』の雫なんかは、バイオリン職人を目指す聖司くんに触発されて、自分の夢を見つけて追いかけ始める。
雫は聖司くんに「素敵な自分」にしてもらおうなんてこれっぽっちも思ってないし、自分の力で「素敵な自分」になろうと努力する。

話が逸れちゃったけど、女の子が能動的「主人公」になっちゃいけないなんて決まりは、やっぱり絶対にない。
というかあってはならない。
今なら祖母の言う事にも堂々と反論できる。
女の子だって「ヒーロー」になれる。そしてその気持ちを踏みにじったり蔑ろにしたりすることは、断じて許されないのだ。
どんな権力にも圧力にも、それは奪われてはいけないことなのだ。

自分のセクシュアリティを定義するなんてことにあまり意味を見出せないので(定義している人を否定しているわけではなく、あくまでわたし個人の考えとして)、QだとかXだとかは言いたくないけれど、おそらくわたしは100パーセントの「女」じゃないとおもう。
男――女の傍線の真ん中からちょっと女寄りに位置しているだけの、くくりで呼ぶときは不便だからとりあえずいちおうの性別として「女」を自称しているに過ぎない。
そのこともあって、過剰に「女性」性の押し付けに反応するのだ。

結婚してからの家事の役割を、前の記事で書いた。
料理を担うのは主に旦那で、この正月も、年越しそばもお雑煮も作ったのは彼だ。
それを他人に言うと「いい旦那さんだねえ」と言われる。
「え、あなたは料理しないの?」とも。
こういう無意識の性差別意識からくる質問に、言い返したい気持ちをぐっとこらえる。
わたしの旦那がいい旦那なのは間違いないけれど。
#ジェンダー #正月 #性役割

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伊藤チタ
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