いない
幼いころから漠然と持っていて、あまり人に話してこなかった感覚が、「いない」というものだった。
私は7人家族で、茶の間の長いちゃぶ台を家族が囲んで夕飯を食べるのだけど、そのときにいつも、「いない」と思っていた。
7人全員が座布団に座っていて、だれひとり欠けていないにも関わらず、なぜかだれかがいない、という感覚が常にあった。
いるべきはずの人がいない、といつも思っていた。
幼くてそれを上手に言語化できなかったし、また「いない」からといってとりたてて何か問題があるわけでもないので、いつも感じるだけでそのままだった。
大人になってから、そういえば昔ね、とその「いない」感覚について妹にふともらしたとき、「え怖い怖いやめて何それ」と怪訝な顔をされた。妹は、流産したなどで、生まれてこなかった子どもがいるんじゃないかと母に確認したけれどべつにそんなこともなかった。前世という言葉で片付くような気もしない。
いま住むこの場所において、ただ漠然と、だれかの不在がつねにあった。
会ったこともない人について、その存在を感じて、それゆえにその不在を意識するというのは、変なことかもしれないけれど、ほんとうはだれもが持っている感覚なんじゃないかと思う気持ちもある。
だれかがいない、という欠落感が、人を求めたり、焦がれさせたり、歌をうたわせたり、ものを書かせたりするのかもしれない。それはまだ見ぬだれかを恋うということでもある。本来あるはずの大切ななにかというものを識っているがゆえの、不在なんじゃないかと、なんとなく思う。
いることをほんとうは知っているから、「いない」と感じるというか。
たとえまだ会ったことはなかったとしても。
✴︎
先日『クレーの天使』という谷川俊太郎さんの詩集を数年ぶりにひらいた。
パウル・クレーが描いた「希望に満ちた天使」という絵に寄せた、あまり希望に満ちていない詩がある。
のはらにもうみべにも
まちかどにもへやのなかにも
すきなものがあって
でもしぬほどすきなものは
どこにもなくて
よるをてんしとねむった
やまにだかれたかった
そらにとけたかった
すなにすいこまれたかった
ひとのかたちをすてて
はだかのいのちのながれにそって
“しぬほどすきなものは どこにもなくて”
というフレーズは、「なにひとつとして死ぬほど好きになれるものはない」ということではなくて、「死ぬほど好きだったものがあったのに、その姿がもうどこを探してもない」という意味だと昔は思っていた、し、それでも間違いではないと思う。
でもいま読み返して思うのは、“しぬほどすきなもの” は、あるはずなのに、はじめからずっと不在だったんじゃないか、ということだ。
焦がれるほど好きなのに、その存在はたしかにあるのに、いちども会えていないし、ずっといないままだったんじゃないか。
とつぜんおとずれた喪失をうたったのではなくて、あらかじめある欠落をうたったような感じがしている。
✴︎
いない。
その感覚はすこしずつ忘れることができるようになっているけれど、よくよく耳を澄ませているとまだたしかにここにある。
そしてあたりまえのように昔から「いない」が前提だったので、そこからなにかをしようとか、埋めようとか、あんまりしなかった。
家のすぐそばに樹齢何百年にもなる大きなけやきの木があり、その幹には大きな洞があいていた。ぱっくりあいた木の洞には風で吹きこんだ枯葉や枝が入っていて、子どもが投げこんだ空き缶なんかもあった。かくれんぼでなかに入る子さえいる。ぱっくりあいた穴のうえには白いふわふわの雲みたいな猿の腰掛けがはえていた。
なかの空洞はそのままなのに、年々、洞のまわりの樹皮が入口を塞ぐようになっていって、いつのまにか握りこぶしほどの穴になった。そのむこうに、がらんとあいた空洞が見える。そして、数年まえには、ついにその入口をすべて樹皮がおおって、なかの洞は完全に内部に隠れた。からっぽはそのまま、表面の傷口だけ塞がるみたいに。
けやきはあたりまえのように空洞を抱えて生きていて、毎年緑の葉をつけ、黄金色の落ち葉を降らせる。
外からまったく見えなくなった大きな洞を抱えた木の、ごわごわした樹皮にふれるたびに、生きるということを教えられているように思う。
どこにもいない “しぬほどすきなもの” の存在を思って、その不在を抱えながら、葉をつけて、色が変わって、ぱらぱら落ちる。それをくりかえす。
いない。
なにもないその場所に、もう風や枯れ葉が吹きこむことはないかもしれないけれど、水が落ちたり風が梢をゆすったり、世界で起きているすべての音が空洞でしんしんと響いているんじゃないかな、と思っている。