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違国日記(漫画感想:2)_他人に過度の期待をしない

「違国日記」は祥伝社から発売されている「FEEL YOUNG」にて、2017年7月号から2023年7月号まで連載されていた漫画で、作者はヤマシタトモコ。
コミュ障で言葉のキツい女と、「自分には何もない」と悩む女子高生の二人を中心にした物語。
このテキストは3回に分けた感想の2つ目で、これまでの感想はこちら。
以下、ネタバレを含む感想などを。

個人の感情を大事にする

人同士が完全には理解し合えないことをもう少し掘り下げてみると、根底には槙生が朝に対して繰り返して言う『自分の感情は自分だけのもの』というのがある。
そう言わせるに至ったのには、槙生が一人の人間として自立出来ているのもあるだろうが、35年生きてきた過程で世間から「ふつう」ではないことを何度も突きつけられた結果というのも想像される。

親を亡くした後、悲しいかと訊いて「わからない」とこたえた朝に対して「あなたの感じ方はあなただけのもの」と言っていたが、さらに朝の実家の整理へ行った際にも、『2巻:page.6』両親が亡くなったことを整理しきれず戸惑う朝に対して、わたしがそれを変えさせることはできないと続ける。

二人の人生経験の差を考慮したら、相手の気持ちを理解できないとはいえ、「共感しているふりをして優しい言葉をかけてあげる」という選択肢もあると思うのだが、嘘をつけない槙生からそういう言葉は出て来ない。ただ事実として人同士が感情を同じように共有することは不可能で、受け取り方が人それぞれに違うことを突きつける。

槙生の朝に対する態度は、アドバイスや判断するための情報提供はすれども、最終的な判断を自分でするようにと促している。
槙生なりに朝を子供扱いせずに一人の人間として接しているからこその言葉だが、自ら考えることに慣れておらず、まだ人生経験の少ない朝にとってはそれが物足りなく感じる。

だから、中学校の卒業式へ出ずに親友のえみりへ酷いことを言って帰宅したことを伝えても、「めんどうくさいな」とまともに取り合わない槙生に朝は納得がいかない。

朝にとっての両親の存在(特に母親)は無条件で自分を肯定してくれる貴重な存在だった。
そのような存在を15歳で失った朝に対して、共感する素振りすらみせず「めんどくさい」と自分の気持を優先して吐露する槙生の態度はいかにもで笑ってしまうがかなり稚拙だと思う。

そのように厳しい態度を取るのは槙生なりに朝へ成長を促しているからこそとも思っていたのだが、徐々に思考力が成熟していく朝に対して『9巻:page.41』では、「自立…成長を…強要してない?」と自身無さげに訊いているので、自覚はあっただろうけど意図的でなかっところに槙生の優しさと不器用さが垣間見える。

人同士は適度に相手へ干渉したりパーソナルな領域に踏み込まないと仲良くなりづらい。
槙生は様々なコンプレックスを抱え、人とのコミュニケーションを苦手としているのに、なんとか朝とうまくやっていこうとする様子が作品全体を通して伝わってくる。
そもそも血縁的な血の濃さを考慮すると、朝の祖母または槙生が引き取るのは妥当だったのでは?とも思うが、だからこそ朝を引き取ったことの尊さがより引き立ってくる。

情けは人の為ならず

では人同士が感情を共有できない、または完全に理解し合えないことを前提とした場合どのように人とコミュニケーションを取るべきか。
『7巻:page.35』で、誰のために小説を書くのか?と問われた槙生は他人のためになんか書かないと言い切り、朝を引き取ったのも献身的なものではなく「あくまでわたしが許せないから」としたあと、さらに続ける。

誰のために何をしたって人の心も行動も決して動かせるものではない
ほとんどの行動は実を結ばない
まして感謝も見返りもない
でも、そうわかっていてなおすることが尊い

槙生がしたり顔で言うこの言葉の意味を、利他的な行動こそが尊いと解釈した。

『11巻:page.51』でも笠町が同じようなことを言っているが、槙生のそれよりもう少しポジティブで私にとってはこちらの方がしっくりくる。

与えたのと同じものが返ってこなくていい
少し離れてその人に関わっていたい

笠町の「返ってこなくていい」という言葉からは、「でも返ってきたら嬉しい」くらいの何らか期待をしているニュアンスが感じられ、いずれは巡って自分に返ってくるのだから、槙生へ親切にしたいという印象を受ける。
これは両親から期待をかけられ、挫折して傷ついた笠町ならではの言葉で、恋愛感情の無い槙生からしたら過度の期待をかけられていないことが伝わる嬉しい言葉だろう。
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『3.11』以降、人々が利他的な心で復興に関わることで「絆」という言葉が多用されるようになった。
人々の親切の交換を絆と言い換えているのだろうが、マスメディアから流れてくる「絆」の響きには「日本人の気持ちをひとつにする」というニュアンスも含まれているように感じられることがある。

利他的な行動と全ての日本人の心の有り様をセットにすることで、全体主義のようなニュアンスが伝わってきるから、最近では絆という言葉に胡散臭さを感じることがままある。
個人の行動や心のあり方までも他人へ強要するのはNGで、個人を尊重することを前提にするのを忘れてはならない。

文字数が多くなってきたので、感想のまとめは次で。


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