マルホランド・ドライブ(感想)_理解不能なことの不安に勝る好奇心
『マルホランド・ドライブ』は2002年日本公開のアメリカ映画で、監督/脚本はデヴィッド・リンチ。
物語の辻褄にこだわるとストレスを感じるが、予測不可能で得体のしれない不安を感じさせる映像が断片的につなぎ合わされ、怖いもの見たさで何度も見直してしたくなる映画。
以下、ネタバレを含む感想などを。
ナオミ・ワッツの演技の幅
車の事故をきっかけに記憶を失い、見ず知らずの他人の家へ勝手に転がり込むリタ/カミーラ・ローズと、そのリタを匿って記憶を取り戻すことへ協力するベティ/ダイアン・セルウィン。リタの記憶を取り戻すために協力していくうちに深い絆で結ばれた2人の女性はやがて愛し合うようになる。
さらにマフィアから指定された女優の起用を断ったことで脅迫される売れっ子映画監督アダムや、黒く塗り潰された顔の人を見て倒れ込む男ダン、間抜けな殺し屋ジョーのエピソードまで、すべてがダイアンの願望が詰まった夢(または妄想のようなもの)となっている。
後半では種明かしがあって、付き合っていたカミーラに捨てられたことに逆恨みしたダイアンが殺し屋のジョーへ依頼しており、ダイアン自身もベッドの上で亡くなっていたという復讐劇となる。
莫大な利益と名声を獲得出来るハリウッドへ群がる欲深い人々を中心にした群像劇となっており、不穏な空気の漂う緊張感のあるシーンの連続に引き込まれる。
また、女優の卵としてLAにやってきた初々しさから、女優としては芽が出ずにやさぐれて凄みのあるベティまで、ナオミ・ワッツの演技の幅も見どころ。
物語への引き込み方の素晴らしさ
本作の初見は公開当時の映画館で、いくつかの思わせぶりな動作やセリフの辻褄が合わずに不可解だったけれど、映画としてはかなり良い印象だったのを記憶している。
しかし振り返って内容を整理してみると、整合性の取れない物語の仕掛けが全て夢オチだと知った時は『またやってくれたな!リンチ!』と頭に来たのもまた事実。
どういうことかというとデヴィッド・リンチの作品では、これ以前に「ツイン・ピークス」の劇場版とTV版を途中までを観ていた。
まっとうな謎解きサスペンスのように、思わせぶりなセリフやしぐさによって様々な伏線を張られているから引き込まれるように観てしまうのだが、実際には伏線がロクに回収されず、辻褄が合わないまま放置されるという体たらくで、そういうつくりがまったく同じだったということ。
伏線はたとえ回収したとしても、霊的な存在や死神などの非現実的な現象のせいにされ、「もはやなんでもアリ」なオチへ落ち着くのが肩透かしでガッカリさせられる。
序盤での物語への引き込みが巧みなだけに、広げた風呂敷のあまりにも雑な畳み方へ対して憤りを感じるのだ。
だいたい、この『マルホランド・ドライブ』にしたって日本版ポスターのコピー「わたしのあたまはどうかしている」からして酷くて、これでは前半と後半でダイアンの性格がガラッと変わるのを多重人格だとミスリードさせてしまう。
そういう理不尽さんに対する怒りを誰かと共有するのも、リンチ作品の楽しみ方のひとつではあると思うのだが、それでも懲りずに見直したく不思議な魅力のあるのもまた事実。
それは日常に潜むふとした不安や恐怖を映像で具現化してくれることから生じる好奇心を刺激してくれるからで、過剰に恐怖を煽る演出はどこか滑稽ですらあって趣がある。
とにかく、よく分からなくて怖い
いくつかそんな好奇心を刺激してくる印象的なシーンについて列挙してみる。
まず壁のように大きなガラス越しにしか会話を許されない、黒幕らしき小柄な老人ロークが怖い。身体は小柄で非力なはずのに、何故か屈強なマフィアの男たちの頂点に鎮座する。
しかもロークからは具体的な指示出しや判断はせず、必ず相手に言わせるという態度。部下からの発言を否定も肯定もしない曖昧な態度が不気味で、部下にはロークへ過剰へ忖度するスキルが求めらるのだが、こんなのは何が正解か分からなくて嫌だ。
長時間滞在するには不便と思われる薄暗い部屋にいる、奇形の老人というのがステレオタイプな悪のボスのイメージを踏襲し過ぎており、もはやコントかと思うほどだが、いたって真面目にやっているからやっぱり怖い。
舌へ一滴だって残さないという態度で、口に含んだ高級エスプレッソをナプキンへ吐き出すマフィアの男の執拗な動作はもはや笑うところ。
しかも映画へ起用する俳優について「彼女だ」とだけ繰り返して、相手に選択の余地を与えない強引さもある。口数少なめにただこちらを見つめて来るのも、突如言葉にならない声で絶叫する同行してきた男も理解が追いつかなくて怖い。
爆笑しながら迫ってくる老夫婦や、最後通告する男の服装がカウボーイなのも意味不明で、仕事を早めに切り上げて帰宅したら妻が不倫しているところだったというのも怖い。
いずれにせよ、これらの理解不能な不安や恐怖は華やかなハリウッドの裏にある暗部の存在を皆が信じているからこそ、それを逆手に取った創作となるが、「そんなわけないだろう」と思いつつも、ハイウッドの真実なんて多くの人は知らないから「なんかギリギリ現実的に有り得そう」な感じがして怖いのだ。
そうして観客がまばらな劇場で、楽団不在なのに演奏が聞こえると語る男はなぜ自信満々な態度で舞台へ立っていているのだろう。
そもそも演奏に合わせてジャストのタイミングで反応するのが凄いのか、それとも楽団無しに音を鳴らせる超能力が凄いのかが不明。いずれにせよベティが突然身体を痙攣させるのも含めてショーそのものが理解不能だが、視聴者を不安な気持ちにさせるてくる。
それに続く「ロサンゼルスの泣き女」の歌は本作の大事なアクセントとなっていて、深いエコーのかかった歌は感傷的で心に沁みる。全ての恐怖を優しく包み込んでくれるかのような歌は、ダイアンが夢から醒めるきっかけとなり、物語の辻褄が合わないことなどどうでも良くなってくるほど素敵なシーンだ。
人間は目に見えないのに存在していそうなものや、理解の追いつかないことへ不安を感じるし、想像によって恐怖を生み出すこともある。
リンチ作品では不思議な現象が「日常と切り離されない範囲で起こり得るかもしれない」という危うさを感じさせる。
それを説明的ではなく視聴者へ想像する余地を残したまま見せてくるから、怖いもの見たさの好奇心が勝ってまた観てしまう。
サントラは劇伴以外では、ジャズ、トリップホップ、カントリー、オールディーズなど多彩なジャンルの楽曲が収録。
映画のハイライトとなる、泣き女の歌うRebekah Del Rio「Llorando (Crying)」がちゃんと収録されているのは嬉しい。
サントラの各曲を単体で聴くとそんなに暗く無いのだが、通して聴くと明るいオールディーズのLinda Scott「I've Told Every Little Star」なども、記憶が映像を連想させて、なんだか不気味な印象を持ってくるのが不思議。