あやしい絵展(感想)_美醜をあわせもった絵画を覗き見する
あやしいをテーマにまとめられた近代絵画
2021年3月23日から、東京国立近代美術館で開催されていた『あやしい絵展』に行ってきたのでその感想を。
幕末~昭和初期にかけて退廃的、妖艶、奇怪、神秘的、不可思議 といった要素をもつ、あやしい絵画が年代ごとに展示されていた。
展示タイトルに、平仮名の『あやしい』が使われているのは、怪しい、妖しい、奇しい の複数の意味を含ませてのことだと思われる。
主に美しい女性をモチーフにして、愛、絶望、嫉妬、死、諦め といった感情を想起させる絵画が多数をしめており、美しさと醜悪さを併せ持った魅力がある。
意外なところでは、アルフォンス・ミュシャ「ジスモンダ」が展示されており、どこがあやしいのかと思ったけど、実物をはじめて観られたのでよかった。
源氏物語、六条御息所の嫉妬で生まれた生霊の描かれた上村松園「焰」。美しく妖艶なフォルムと、蜘蛛の巣模様の着物の不気味さが混同している。いっときの欲望に負けて、このような女性と関係を持ったなら、あとで必ず後悔させられる恐怖を予感させられ、きっとなんらかの辻褄合わせが必要になると思わされる。
北野恒富「道行」などは、男女の目線の先には何もない構図から諦めを感じさせるのと、飛び交う烏の不吉な雰囲気も相俟って、もう一緒に死ぬしかないと”死の一歩手前”を感じさせて直接的だ。
ひとりの女性を違う角度から比較
延長六年(929)、奥州から熊野詣に向かう美形の僧、安珍に懸想した清姫。しかし安珍に裏切られた清姫は蛇に姿を変えて、道成寺の鐘の中へ逃げた安珍を鐘ごと焼き殺すという『安珍・清姫伝説』。
そんな恐ろしい女性、清姫をモチーフに木村斯光と村上華岳の作品が並べて展示されていた。
まず、木村斯光の「清姫」。清姫を騙した安珍にも非はあるのだろうが、美形の僧に一目惚れし、口約束を果たすために、逃げる安珍を追った女の執念を感じさせる絵になっている。
まず、細く冷たい清姫の目つきに目がいくが、着物の色の対比も興味深い。桃色の花の描かれた部分と、龍の描かれた部分の対比が際立っており、蛇の鱗を思わせる襟もあいまってまさしく蛇に変化する瞬間のよう。
対して、右隣に展示されていた村上華岳による「日高河清姫図」。
暗い空と手前に流れる川、そうして殺風景な山の描かれた背景こそ寂しい風景で、清姫の裸足なのは気になるが、しなやかな手付きと片足をあげた所作はまるで踊っているかのようにのほほんとしている。悲しげな顔つきもいたって穏やかで安珍を焼き殺す女性にはとても思えない。
同じ清姫をモチーフにしながら、”恨み”と”悲しみ”のそれぞれに違う感情をすくい取っているからこそ、印象の異なる作品になっていると解釈すると興味深い。
ちなみに、展示期間の都合で見られなかったのだが、橘小夢「安珍と清姫」も展示される予定。こちらは官能的で重苦しさはない。安珍の穏やかな表情から拒絶は感じられないため、さらに違った解釈となっている。
甲斐庄楠音「横櫛」も2点展示されていたのだが、同じ女性なのに印象がだいぶ異なる。処女翫浮名横櫛(ムスメゴノミウキナノヨコグシ)の一場面で、描かれている女は、かつての恋人のためにゆすりや殺人に手を染め、最後は恋人と自害する悪女ということ。
女の年齢的の違いもあるだろうが、黄色い着物を着た方は、愛する男と結ばれず、複数の男の妾として生きてきた女の苦労を漂わせている。
負の感情を絵画から受け止めること
今回の展示内容には、人間の持っている”他者への負の感情”を浴び続けることになるため、じゃっかんの疲労感と緊張感を感じさせられた。そんななら観るのをやめればよいのだがしかし、むしろ目を離すことができずに見入ってしまう。
当たり前のことだが、絵の中の女はあくまで他人事なので「あやしい絵」から感じる負の感情を安全な位置から鑑賞することが出来る。
絵の中の女に感情移入して、死ぬほど後悔してもよいから、危ない橋を渡ってみたいとも思うけども、やっぱりなんていうか展示を観終えたときに「平穏に生きててよかった」なと。
生は死があるからこそ価値がある。美しいものもやがて醜くなるからこそ価値がある。そんな印象を与えるから見入ってしまうのかもしれない。
図録を確認すると、岡本神草「口紅」も後期(4/20~)に展示されるとのこと。可能であればこちらも実物を観てみたいと思う。