【PRIDE全史】~“世界最高峰”の誕生から消滅まで~
みなさんはかつて日本に存在した世界最高峰の総合格闘技団体「PRIDE」をご存知でしょうか?
1997年(平成9年)に産声を上げたPRIDEは桜庭和志、エメリヤーエンコ・ヒョードル、ヴァンダレイ・シウバ、五味隆典といったスター選手を次々に輩出し、日本に総合格闘技ブームを巻き起こしました。
世界中のトップファイターがPRIDEに参戦し、「世界最高峰の舞台」と言われるまでに成長しますが、2007年(平成19年)にアメリカの総合格闘技団体「UFC」に買収され、そのまま消滅してしまいました。
今回は、日本における総合格闘技ブームを牽引し、世界の格闘技の中心となった団体「PRIDE」の歴史を解説します。
【ヒクソン・グレイシー vs 高田延彦】
1997年(平成9年)10月、日本の格闘技界が注目する一戦がPRIDEの第1回大会で行われました。
ヒクソン・グレイシー vs 高田延彦です。
当時の格闘技界では、グレイシー一族が猛威を振るっていました。
1993年(平成5年)11月、「最強の格闘技は何か?」をコンセプトに始まったUFC第1回大会では、一番小柄だった柔術家のホイス・グレイシーが全試合一本勝ちでトーナメントを勝ち抜き、優勝しました。
ホイスはその後、第2回大会、第4回大会でも優勝します。
そして、「兄ヒクソンは私の十倍強い」と発言して格闘技界にさらなる衝撃を与えました。
UFC王者のホイスをして「十倍強い」と言わしめた兄ヒクソン・グレイシーは“400戦無敗”の異名を持ち、日本で試合を行って西良典、山本宜久、木村浩一郎、中井祐樹などから次々一本勝ちを収め、ホイスとともにグレイシー最強伝説を見せつけていきました。
このヒクソンの快進撃を止めるために白羽の矢が立てられたのが、当時プロレス界のエースとして君臨していた高田延彦です。
そして、このヒクソン vs 高田を実現するために誕生したのが、後に世界最高峰の格闘技団体となる「PRIDE」でした。
プロレスラーの威信、そして日本人の威信を懸けてヒクソンに挑んだ高田ですが、ほぼ何もさせてもらえずにマウントポジションを取られ、そのまま腕ひしぎ十字固めで一本負けを喫しました。
PRIDEはヒクソン vs 高田を実現するために行われた興行であり、当初は1回きりの開催を予定していましたが、PRIDE第1回大会が好評を博したため第2回大会の開催が決定し、以後、2007年(平成19年)まで継続していくこととなります。
ちなみに、ヒクソンと高田は1998年10月のPRIDE.4で再戦が組まれ、ヒクソンが高田を返り討ちにしています。
その後、PRIDEの運営にも大きな変化があり、それまでの実行委員会組織での運営から株式会社ドリームステージエンターテインメント(DSE)の運営に移りました。
【桜庭和志の登場】
1998年3月、横浜アリーナで開催されたPRIDE.2には、後にPRIDE人気の火付け役となる、ある選手が参戦しました。
桜庭和志です。
桜庭は高校と大学でレスリングを習った後にプロレス団体「UWFインターナショナル」へ入門し、その後「キングダム」へ移籍、強豪選手と試合をして実績を積んでいきます。
そして1997年12月、金原弘光の代役としてUFC Japanヘビー級トーナメントに出場し、柔術黒帯の強豪、マーカス・コナンに一本勝ちしてUFC-J王者となりました。
ここで桜庭は「プロレスラーは本当は強いんです」と発言し、注目を集めます。
その後、高田延彦が主宰する高田道場へ移籍した桜庭は、PRIDEに参戦することとなったのです。
PRIDEデビュー戦では、後にKOTCやIFCのチャンピオンとなるヴァーノン・"タイガー"・ホワイトと対戦し、腕ひしぎ十字固めで勝利しました。
その後桜庭は、PRIDE.3で後にUFC世界ウェルター級王者となるカーロス・ニュートンを撃破し、アラン・ゴエスとの引き分けを挟んでビクトー・ベウフォート、エベンゼール・フォンテス・ブラガ、アンソニー・マシアスといった強豪相手に連戦連勝を飾ります。
桜庭はただ勝つだけでなく、観客を沸かせる“魅せる試合”を行って「IQレスラー」と呼ばれるようになり、スター街道を歩んでいきます。
【小川直也参戦】
1999年(平成11年)7月のPRIDE.6では、当時プロレスで活躍していたバルセロナオリンピック柔道銀メダリスト・小川直也がPRIDEデビューを飾りました。
相手はアームレスリングで世界一にもなった剛力王、ゲーリー・グッドリッジです。
序盤は打撃に苦しむ場面が見られたものの、徐々にペースを掴んでいき、最後はアームロックに捉えてグッドリッジに勝利しました。
五輪メダリスト・小川の参戦により、PRIDEの注目度はさらに増していきました。
小川は2000年10月のPRIDE.11にも参戦し、かつてK-1で活躍した空手家・佐竹雅昭と対戦します。
チョークスリーパーで締め上げて勝利し、その後はプロレスを主戦場にしつつ、時折総合格闘技にも挑戦していくこととなります。
【ヴァンダレイ・シウバ参戦】
1999年9月のPRIDE.7では、後に「PRIDEミドル級絶対王者」と呼ばれることになる、ある選手が参戦しました。
ヴァンダレイ・シウバです。
この時のシウバの相手は、PRIDE.6でエンセン井上の兄であるイーゲン井上に勝利した実力者、カール・マレンコです。
試合は終始シウバのペースとなり、判定勝ちによりシウバは白星デビューを飾りました。
その後シウバは、松井大二郎、ガイ・メッツァー、ダン・ヘンダーソンといった実力者を次々下していき、桜庭と同じくPRIDEで連勝街道を歩んでいきます。
【グレイシーハンター】
1999年11月のPRIDE.8のメインイベントでは、日本格闘技界注目の一戦が行われました。
桜庭和志 vs ホイラー・グレイシーです。
ホイラーは、UFCのトーナメントを3度制したホイス・グレイシーの兄であり、桜庭の師匠・高田延彦を2度破ったヒクソン・グレイシーの弟です。
この時の両者の総合格闘技の戦績は、桜庭が7戦6勝1分、ホイラーが3戦3勝であり、無敗同士の激突でした。
ホイラーのセコンドには兄ヒクソンがつきました。
試合は終始桜庭ペースで進んでいきます。
迎えた2R、桜庭がついにホイラーの腕を捉えました。
しかし、腕を極められても根性でホイラーはギブアップしません。
そして、レフェリーがこれ以上は危険と判断し、桜庭のTKO勝ちとなりました。
日本人が総合格闘技の舞台において初めてグレイシー越えを果たした瞬間でした。
一方、レフェリーストップという裁定に納得がいかないグレイシー陣営は猛抗議を行いました。
試合後のマイクで桜庭は「ホイラー選手はタップしていないって言ってますが、あそこからどうやって逃げたのか知りたいです」「次はお兄さん、僕と勝負してください」とヒクソンへ挑戦状を叩きつけ、観客を沸かせました。
その後桜庭はホイス・グレイシー、ヘンゾ・グレイシー、ハイアン・グレイシーに勝利してグレイシー相手に4連勝を飾り、「グレイシーハンター」と呼ばれることとなります。
【桜庭和志 vs ホイス・グレイシー】
2000年(平成12年)1月、PRIDE初のグランプリが東京ドームで開催されました。
これはPRIDEの初代王者を決めるために行われた16人制の無差別級トーナメントです。
この大会ではPRIDE GPの1回戦全8試合とリザーブファイト1試合の合計9試合が行われました。
藤田和之、桜庭和志、マーク・コールマン、イゴール・ボブチャンチンといった名だたるファイターが1回戦を突破していきます。
そして、メインイベントでは高田延彦とホイス・グレイシーが激突しました。
ホイスはこれがPRIDEデビュー戦でした。
体格で劣るホイスが巧みな試合運びで高田を完封し、高田はグランプリ1回戦で敗退しました。
また、この大会では、後にお馴染みとなるリングアナウンサーの太田真一郎、入場コールを担当するレニー・ハートが初登場しています。
こうして2000年5月、1回戦を突破した8名の選手によってPRIDE GP決勝戦が開催されました。
特に注目の一戦として、桜庭和志 vs ホイス・グレイシーが実現しました。
この時の桜庭は9戦8勝1分と無敗で快進撃を続けており、対するホイスは14戦12勝1敗1分で唯一の黒星は負傷により棄権したハロルド・ハワード戦のみであり、実質無敗同士の激突でした。
さらに桜庭はホイスの兄ホイラーを破っており、一方のホイスはグランプリ1回戦で桜庭の師匠・高田延彦を撃破しているという、まさに因縁とドラマが詰まった一戦でした。
この一戦はグレイシー側の要望により、「レフェリーストップなし」「判定なしの15分無制限ラウンド」という完全決着制の特別ルールで実施されました。
ホイスのセコンドには、父でグレイシー柔術の創始者であるエリオ・グレイシーがつきました。
桜庭はホイスの腕を捉えて不敵な笑みを浮かべたり、ホイスの道衣を脱がせて頭に被せたり、帯を掴んでホイスを持ち上げパンチを繰り出すなど、独創性あふれる攻撃を展開し、ホイスを追い詰めていきます。
ホイスは桜庭の攻撃により、明らかにダメージが蓄積していました。
そして、6Rが終了したころ、ついにその時が来ました。
ホイスのセコンド(ホリオン・グレイシー)がリングにタオルを投げ入れ、桜庭のTKO勝ちとなりました。
こうして90分に及ぶ死闘が幕を閉じました。
「極められてもタップしない」とも言われるグレイシー一族からタオル投入による勝利を勝ち取ったこのシーンは、格闘技史に残る歴史的瞬間となりました。
試合後に両者は健闘を称え合い、桜庭はホイスのセコンドであるエリオと握手しました。
この時、エリオは笑みを浮かべました。
UFCを3度制したホイスに実質初めてとなる敗北を味わわせた桜庭の名は世界に広まり、桜庭は世界中のファイターからその首を狙われることとなります。
ちなみに、桜庭は総合格闘技の発展に大きく貢献したとして日本人で初めてUFC殿堂入りを果たしています。
90分に及ぶ前代未聞の試合を制した桜庭は準決勝でイゴール・ボブチャンチンと対戦しますが、体力の消耗が激しく、1R終了後にタオル投入によりTKO負けとなります。
PRIDE GPの決勝戦はマーク・コールマン vs イゴール・ボブチャンチンの激突となりました。
この試合ではコールマンがグラウンド状態でボブチャンチンの頭部に膝蹴りを連打し、ギブアップによりボブチャンチンを破り、コールマンがグランプリを制しました。
コールマンはUFCでもヘビー級のベルトを巻いており、UFCとPRIDEで頂点を獲った初めての人間となりました。
【桜庭和志 vs ヴァンダレイ・シウバ】
2001年(平成13年)3月に行われたPRIDE.13のメインイベントでは、桜庭和志 vs ヴァンダレイ・シウバが実現しました。
シウバは桜庭との対戦を直訴しており、シウバにとっては念願の一戦でした。
桜庭は獰猛なシウバを相手に真っ向勝負を挑むも、4点ポジションでの蹴り(グラウンド状態での頭部への蹴り)によって大きなダメージを負い、レフェリーストップでTKO負けを喫しました。
桜庭とシウバは、PRIDE.17の初代ミドル級王座決定戦、そして2003年に行われたPRIDE GP2003開幕戦でも激突しますが、いずれも桜庭がシウバに敗北しています。
かつて桜庭がグレイシーを次々撃破してスターダムにのし上がったように、シウバは桜庭を喰らってPRIDEの象徴的存在となっていきました。
その後、数々の日本人がシウバに挑むも、次々に散っていくこととなります。
【PRIDEヘビー級3強】
2001年7月のPRIDE.15では、後に華麗な柔術技によってPRIDEのリングを席巻することとなるアントニオ・ホドリゴ・ノゲイラが参戦しました。
ノゲイラは「千の技を持つ男」とも称され、巧みな柔術テクニックによってリングスで活躍していました。
デビュー戦の相手は「PRIDEの番人」の異名を持つ剛力王、ゲーリー・グッドリッジです。
試合開始早々にグラウンドに持って行ったノゲイラは、そのまま得意の三角締めによりグッドリッジを下し、白星デビューを飾りました。
ちなみにこの大会では、後にヴァンダレイ・シウバと名勝負を繰り広げUFCのライトヘビー級王者にもなる格闘家、クイントン・"ランペイジ"・ジャクソンが桜庭和志を相手にPRIDEデビューを果たしています(結果は桜庭の一本勝ち)。
ノゲイラはその後、2000年のPRIDE GPで優勝したマーク・コールマンと対戦し、変幻自在のグラウンドテクニックで一本勝ちを収めます。
2001年11月のPRIDE.17からは体重による区分けが新設され、93.1kg以上がヘビー級、93.0kg以下がミドル級となりました。
PRIDE.17ではヘビー級とミドル級の初代王座決定戦が行われ、ヒース・ヒーリングに勝利したノゲイラがヘビー級王者に、桜庭に勝利したシウバがミドル級王者になりました。
ちなみにこの大会は東京ドームで行われ、53,000人を超える観客を動員しています。
2002年(平成14年)4月、PRIDE vs K-1というジャンルを超えた対決が行われました。
PRIDE代表はミドル級王者ヴァンダレイ・シウバ、K-1代表は1999年のK-1グランプリで準優勝を果たしたミルコ・クロコップです。
この試合は1R3分の5R制で、時間内に決着がつかない場合はドローという特別ルールで行われ、ジャンルを超えたトップファイター同士の激突に会場は異様な空気に包まれました。
壮絶な打撃戦を展開した両者は時間内に決着がつかず、ドローとなりました。
2002年6月のPRIDE.21では、後に「氷の皇帝」「人類最強の男」と呼ばれることになる、ある男がPRIDEに初上陸しました。
エメリヤーエンコ・ヒョードルです。
ヒョードルはリングスのヘビー級と無差別級を制し、戦績は10勝1敗、唯一の敗北は試合開始早々のドクターストップのみという超強豪ファイターです。
ヒョードルのPRIDEデビュー戦の相手は、後にK-1 GPを4度制して立ち技世界最強男となる男、セーム・シュルト(セミー・シュルト)です。
約30cmという身長差を物ともせず、ヒョードルはシュルトを完封しました。
ちなみにこの大会のメインイベントでは、後に語り継がれることになる名勝負「高山善廣 vs ドン・フライ」が行われました。
メインまでの直近4試合は全て判定決着であり、会場はどことなく停滞ムードが漂っていました。
この試合はゴングが鳴った途端、お互いがノーガードでの打ち合いを展開し、会場を沸かせます。
最後はドン・フライがマウントポジションからパウンドを連打し、レフェリーストップによるTKOで高山を下しました。
男同士の壮絶な殴り合いに観客は酔いしれ、2人には惜しみない拍手が送られました。
この試合がきっかけとなり、総合格闘技においてノーガードで殴り合う展開のことを「高山ドン・フライ」と呼ぶようになりました。
2002年11月に行われたPRIDE.23ではヘビー級次期挑戦者決定戦として、エメリヤーエンコ・ヒョードル vs ヒース・ヒーリングが実現しました。
この試合では、ヒョードルが「氷の拳」と形容されるパウンドをヒーリングに叩き込み、ドクターストップによって勝利します。
こうして2003(平成15年)3月、アントニオ・ホドリゴ・ノゲイラ vs エメリヤーエンコ・ヒョードルのPRIDEヘビー級タイトルマッチが行われました。
戦績は王者ノゲイラが19勝1敗1分、挑戦者ヒョードルが12勝1敗。
両者敗北は1度のみという超強豪同士の激突でした。
当時のPRIDEには、元UFC王者を始め続々と名だたるトップファイターが参戦しており、この試合は紛れもなく真の世界最強決定戦でした。
この試合では、“柔術マジシャン”ノゲイラの寝技をヒョードルが悉く封じて強烈なパウンドを叩きこみ、3R判定勝ちにより新チャンチンに輝きました。
この試合を皮切りにヒョードルは「60億分の1の男」「人類最強の男」と称されるようになります。
新チャンピオン誕生から3か月後、“ターミネーター”ミルコ・クロコップがついにPRIDE本格参戦を果たします。
こうしてエメリヤーエンコ・ヒョードル、アントニオ・ホドリゴ・ノゲイラ、ミルコ・クロコップの3人は「PRIDEヘビー級3強」と称され、この3人を軸にさまざまなドラマが繰り広げられていきます。
【高田延彦引退、吉田秀彦参戦】
2002年9月のPRIDE.22では元UFC世界ヘビー級王者ケビン・ランデルマンがPRIDEデビューを果たし(3R判定勝ち)、高田延彦が次回のPRIDE.23で引退することを表明します。
2002年11月のPRIDE.23で高田は引退試合を行います。
相手は、かつてUWFインターナショナルで共に汗を流し、「僕と真剣勝負してください」と直訴されたこともある後輩・田村潔司です。
田村は先輩・高田の顔面を強く殴ることができず、終始ローキックで試合を組み立てます。
2Rの1分が過ぎようとしたところ、足を引きずりながら強引に前に出る高田に対し、田村がふいに放ったカウンターの右フックがクリーンヒットします。
高田はそのままマットに崩れ落ちました。
失神する高田の姿を見て田村は呆然とします。
高田のラストマッチは失神KO負けという壮絶な結末となりました。
そして高田は、田村に「この嫌な役をよく引き受けてくれたよ、田村、お前、男だ」と発言します。
これをきっかけとして、「お前、男だ」のフレーズはPRIDEで頻繁に使われるようになります。
高田の引退と入れ替わるように、この大会ではある男がPRIDEデビューを飾りました。
バルセロナオリンピック柔道金メダリスト、吉田秀彦です。
吉田のデビュー戦の相手は、「PRIDE男塾塾長」ドン・フライです。
百戦錬磨のドン・フライを相手に吉田は臆せず闘い、腕ひしぎ十字固めよりデビュー戦を白星で飾りました。
その後吉田は田村潔司やヴァンダレイ・シウバ、ホイス・グレイシーといった強豪たちと死闘を演じ、PRIDE人気を牽引する日本人の一人となります。
【榊原信行と新たな挑戦】
2003年1月、DSEの森下直人社長が宿泊先のホテルで遺体として発見されます。
検視の結果、自殺と判断されました。
後任の社長には榊原信行が就任し、ここから榊原体制での運営が始まります。
この2003年という年はPRIDEでさまざまな挑戦が行われました。
6月にはK-1からミルコ・クロコップが本格参戦し、PRIDEヘビー級屈指の実力者で“テキサスの暴れ馬”の異名を持つヒース・ヒーリングを1RでKOし、いきなりトップ戦線に躍り出ます。
8月には、ヴァンダレイ・シウバ、桜庭和志、吉田秀彦らの活躍で盛り上がっていたミドル級でグランプリを開催し、圧倒的な強さでシウバが優勝、「PRIDEミドル級絶対王者」と呼ばれるようになります。
10月には、「PRIDE武士道」シリーズが始まりました。
「PRIDE 武士道 -其の壱-」はミルコ・クロコップ vs ドス・カラスJrが行われ、この大会でセルゲイ・ハリトーノフ、エメリヤーエンコ・アレキサンダー、マウリシオ・ショーグンらがPRIDEに初参戦しました。
武士道シリーズは後に中軽量級にスポットを当てる大会となり、五味隆典、川尻達也、桜井"マッハ"速人、青木真也などが参戦します。
そして12月31日の大晦日には、「PRIDE男祭り」が初開催されます。「男祭り」は翌年以降も開催され、大晦日の定番イベントとなっていきます。
この2003年は格闘技ブームの真っ只中であり、PRIDEが「PRIDE SPECIAL 男祭り 2003」をさいたまスーパーアリーナで開催して3万9700人を動員し、K-1が「K-1 PREMIUM 2003 Dynamite!!」をナゴヤドームで開催して4万3500人を動員し、アントニオ猪木が「INOKI BOM-BA-YE 2003」を神戸ウイングスタジアムで開催して4万3100人を動員します。
この年の大晦日だけで3つの大きな格闘技興行が日本で行われ、それぞれが4万人の観客を動員し、「PRIDE男祭り」はフジテレビ、「K-1 Dynamite!!」はTBS、「INOKI BOM-BA-YE」は日本テレビで放送されるという格闘技の興行戦争とも言える状態となりました。
ちなみに、視聴率は「K-1 Dynamite!!」が19.5%を獲得してこの日の民放1位となり、2位は12.2%で「PRIDE男祭り」となりました。
さらに「K-1 Dynamite!!」のメインで行われた「ボブ・サップ vs 曙」は瞬間最高視聴率43.0%を記録し、NHKの「紅白歌合戦」の視聴率を超えるという快挙を達成しました。
まさに日本中が格闘技に熱狂していた時代でした。
格闘技ブームによって各団体での選手の引き抜き合戦も加速し、ファイトマネーも上昇していきます。
こうして、PRIDEや日本の格闘技界には次々強豪外国人ファイターが参戦していきます。
【人類“60億分の1”を決める舞台】
2004年(平成16年)、総合格闘技で世界一の団体となっていたPRIDEは人類最強を決める闘いとして「PRIDEヘビー級GP」を開催します。
“氷の皇帝”エメリヤーエンコ・ヒョードル、“柔術マジシャン”アントニオ・ホドリゴ・ノゲイラ、“ターミネーター”ミルコ・クロコップ、“テキサスの暴れ馬”ヒース・ヒーリング 、“ロシア軍最強兵士”セルゲイ・ハリトーノフ、“巨神兵”セーム・シュルト(セミー・シュルト)、“暴走柔道王”小川直也といった錚々たる格闘家が集い、最強を決めるにふさわしい舞台となりました。
優勝候補の一角ミルコ・クロコップが一回戦で衝撃のKO負けを喫したり、伏兵ハリトーノフが戦慄の強さを見せつけベスト4に進出するなど波乱の展開となり、最後はヒョードルがノゲイラを返り討ちにしてGPを優勝し、名実ともに「人類最強の男」となりました。
2005(平成17年)はライト級、ウェルター級、ミドル級の3つの階級でトーナメントが開催され、ライト級は五味隆典、ウェルター級はダン・ヘンダーソン、ミドル級はマウリシオ・ショーグンが優勝します。
大晦日には柔道時代からの因縁の対決「吉田秀彦 vs 小川直也」が行われ、この一戦は視聴率25.5%を記録しました。
人気絶頂となっていたPRIDEは2006年、原点回帰とも言える一手を打ちます。
「PRIDE無差別級GP」の開催です。
階級の壁を取っ払ったこのGPには、アントニオ・ホドリゴ・ノゲイラ、ミルコ・クロコップ、ジョシュ・バーネット、マーク・ハント、 ファブリシオ・ヴェウドゥム、アリスター・オーフレイム、吉田秀彦、そしてエメリヤーエンコ・ヒョードルの代役として準々決勝からヴァンダレイ・シウバが参戦し、空前の盛り上がりを見せます。
しかし、「無差別級GP開幕戦」を開催してから1か月後の6月5日、PRIDEの存続を揺るがす大事件が起こります。
「運営会社に不適切な事象があった」として、それまで地上波放送を行っていたフジテレビがPRIDEとの契約解除を発表しました。
【PRIDEの消滅とUFCの隆盛】
フジテレビによる契約解除発表の1か月前に行われた「PRIDE無差別級GP開幕戦」は平均視聴率17.6%を記録しており、フジテレビにとってPRIDEはドル箱番組でした。
そんな優良コンテンツのPRIDEを放送中止するという決断に至った背景にはいったい何があったのか、さまざまな憶測を呼びました。
フジテレビから契約解除された後もスカパー!(スカイパーフェクTV)によるPPV放送を軸に大会開催を継続したPRIDEですが、当時はテレビの地上波放送が絶大な影響力を持っており、契約を打ち切られたダメージは甚大でした。
そもそも、地上波の放映権料はPRIDE全体の収入の10~15%を占めていたとされます。
それを突然失ったことに加え、テレビ放送がなくなったことでスポンサーの撤退も相次ぎました。
また、格闘技番組やスポーツニュースでもPRIDEの話題が取り上げられなくなり、観客動員にも響き、ファイトマネーにも影響が出て選手の流出を招きました。
暗雲が立ち込めた中でも開催した無差別級GPではミルコ・クロコップが優勝し、悲願のPRIDE王者となりました。
ただし、ミルコがこれ以降PRIDEのリングに立つことはありませんでした。
PRIDEはアメリカで大会を開催するなど新たな活路を求めますが、徐々に経営の継続が困難となっていき、2007年(平成19年)3月、「PRIDEを開催し続けること」などを条件として、PRIDEの興行権をUFCに譲渡することが発表されました。
つまり、PRIDEはUFCに買収されました。
しかし、「PRIDEを開催し続けること」という契約は履行されず、2007年10月にPRIDEの日本人スタッフは一斉に解雇され、世界一の総合格闘技団体「PRIDE」は事実上消滅しました。
これにより、PRIDEのスター選手たちは続々とUFCに参戦していきます。
こうしてPRIDEを喰ったUFCは世界一の格闘技団体へとのし上がっていきました。
PRIDEを運営していたDSEの社長・榊原信行は、PRIDE売却時の契約により「7年間の競業禁止」となっていたため、格闘技業界からしばらく離れることとなります。
その間、2007年の大晦日には「一夜限りの復活」として旧PRIDEスタッフによるイベント「やれんのか! 大晦日! 2007」が開催され、エメリヤーエンコ・ヒョードルや青木真也らが出場しました。
2008年(平成20年)にはPRIDEの後継的団体として「DREAM」と「戦極(SRC)」が旗揚げされるも、どちらもPRIDEほどの盛り上がりを作ることができず、数年後に活動を停止します。
そして、2015年(平成27年)、競業禁止期間が終わり、格闘技界に帰ってきた榊原信行によって新たな格闘技イベント「RIZIN」が設立され、PRIDE以降沈下していた格闘技の熱に新たな火をつけました。
【PRIDEベストバウト】
2005年、PRIDEオフィシャルサイトとフジテレビの番組HPで募集した「あなたが選ぶPRIDE歴代ベストバウト」が発表されました。
第10位、1997年10月11日「PRIDE.1」、ヒクソン・グレイシー vs 高田延彦
この試合はPRIDEの第一回大会のメインとして行われ、この一戦からPRIDEの歴史が始まりました。
第9位、2003年3月16日「PRIDE.25」、アントニオ・ホドリゴ・ノゲイラ vs エメリヤーエンコ・ヒョードル
PRIDEヘビー級のベルトを巻く“柔術マジシャン”ノゲイラに“氷の拳”を持つヒョードルが挑戦し、ノゲイラの寝技を完封します。新チャンピオンとなったヒョードルの長期政権がここから始まりました。
第8位、2004年10月31日「PRIDE.28」、ヴァンダレイ・シウバ vs クイントン・"ランペイジ"・ジャクソン
「PRIDEミドル級絶対王者」のシウバに“マッド・ドッグ”ジャクソンが挑んだ一戦。両者は前年のPRIDEミドル級GP決勝戦で対戦しており、この時はシウバが膝の連打でジャクソンを沈めていました。
1Rはシウバからダウンを奪うなどジャクソンが優勢に進めますが、迎えた2R、右フックでジャクソンを効かせたシウバが一気に畳みかけ、膝蹴りの連打でジャクソンを返り討ちにしました。
気を失ったジャクソンがロープにもたれかかるという衝撃的な大逆転KO劇となりました。
第7位、2002年11月24日「PRIDE.23」、高田延彦 vs 田村潔司。
高田延彦の引退試合となったこの試合は、田村が放った右フックで高田が失神し、KOによって田村が高田を介錯しました。
第6位、2004年12月31日「PRIDE 男祭り 2004 -SADAME-」、ヴァンダレイ・シウバ vs マーク・ハント
元K-1王者のハントが「PRIDEミドル級絶対王者」シウバと激突するという階級を超えたビッグマッチが実現。
この試合ではPRIDE王者シウバからダウンを奪うなどハントが的確にダメージを与え、判定2-1でシウバを下しました。
PRIDEで負けなしだったシウバはこの試合で初黒星を喫しました。
第5位、2005年8月28日、エメリヤーエンコ・ヒョードル vs ミルコ・クロコップ
「PRIDE GRANDPRIX 2005 決勝戦」の大会内で行われたこの一戦は、王者ヒョードルが挑戦者ミルコの打撃を封じて徐々にスタミナを削っていき、判定3-0で完封勝ちしました。
“最強”を決めるトップファイター同士の激突は凄まじい緊張感を帯び、その一挙手一投足に会場がどよめきました。
第4位、2005年9月25日「PRIDE 武士道 -其の九-」、五味隆典 vs 川尻達也
PRIDEで7連勝していた元修斗王者・五味に対して、当時3年間負けなしで絶好調だった現役修斗王者・川尻が挑んだ一戦。
試合前から舌戦を繰り広げていた両者の対戦は試合前から異様な空気を醸しだし、会場のボルテージは最高潮に達していました。
徐々に試合のペースを掴んだ五味が川尻を捉えていき、最後はチョークスリーパーで川尻を葬りました。
第3位、2003年11月9日、吉田秀彦 vs ヴァンダレイ・シウバ
PRIDEミドル級GP準決勝で行われたこの一戦は、シウバに対して吉田が臆せず攻撃を仕掛けます。
シウバを追い詰める場面を作るなど善戦するも、あと一歩届かず、判定3-0でシウバが勝ちました。
第2位、2003年11月9日、アントニオ・ホドリゴ・ノゲイラ vs ミルコ・クロコップ
「PRIDE GRANDPRIX 2003 決勝戦」の大会内で行われたこの一戦は、本来ミルコが王者ヒョードルに挑戦するはずでしたが、ヒョードルの怪我によって試合が流れます。
これにより、ノゲイラとミルコがヘビー級暫定王座のベルトを懸けて激突しました。
「寝技のノゲイラ vs 打撃のミルコ」という構図となったこの一戦は、ノゲイラの寝技に付き合わないミルコが的確に打撃を当てていき、1R終了間際には得意の左ハイキックでノゲイラからダウンを奪います。
このままミルコペースで進むと思われた2R、ノゲイラがついにタックルを成功させて寝技に持ち込みます。
マウントポジションを強引に返されたところで腕ひしぎ十字固めを極め、格闘技史に残る大逆転劇によってミルコを粉砕し、ノゲイラが暫定王座のベルトを手に入れました。
ミルコはこの試合で総合格闘技初黒星を喫しました。
第1位、2000年5月1日、桜庭和志 vs ホイス・グレイシー
総合格闘技界で猛威を振るい「不敗神話」を誇っていたグレイシーに“IQレスラー”桜庭が挑んだ一戦。
グレイシー側が要求した特別ルールを桜庭が全て呑んで実現したこの一戦は、序盤から桜庭ワールドが展開され、最後はグレイシー陣営がタオルを投げ、(ホイラー戦に続く)グレイシー越えを果たしました。
【PRIDEが残したもの】
PRIDEではさまざまなドラマが生まれ、多くのスター選手が輩出されました。
リング上で繰り広げられる最高峰の攻防に格闘技ファンは釘付けとなり、トップファイターやトップアスリートが続々と参戦して日本に総合格闘技ブームを巻き起こしました。
また、PRIDEを観て育った世代が格闘家を志し、PRIDE亡き後の「格闘技冬の時代」を支えました。
PRIDEで行われた最高峰の闘いの数々は、未だそれぞれのファンの心の中に生き続けています。
以上、今回は日本における総合格闘技ブームを牽引し、世界でも圧倒的存在感を放った団体「PRIDE」の歴史を解説しました。
みなさんがPRIDEで好きな選手、好きな試合、好きなシーンは何でしょうか?
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