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【キックの鬼】沢村忠の生涯

みなさんは、「キックの鬼」の異名で一世を風靡した格闘家、沢村忠をご存知でしょうか?

キックボクシングという競技は今や世界中で人気の格闘技コンテンツですが、実は日本発祥の競技です。

1966年(昭和41年)、ボクシングのプロモーターだった野口修が「キックボクシング」を考案し、その団体として日本キックボクシング協会が設立されました。

沢村は野口の導きによってキックボクシング選手となり、試合はテレビで放送され、絶大な人気を獲得しました。

必殺技の「真空飛び膝蹴り」でKOの山を築いた沢村は、漫画雑誌の表紙を飾るなど、国民的ヒーローとなりました。

今回は、戦後の日本格闘技界で活躍し、キックボクシングを世に広めた立役者、沢村忠の生涯を解説します。

【野口修との出会い】

沢村忠(本名:白羽秀樹)は、1943年(昭和18年)、満州国(現在の中国東北部)に生まれました。

沢村は幼少期から剛柔流空手を習っていましたが、将来は役者を目指していました。

剛柔流は松濤館流、糸東流、和道流と並び、空手道四大流派の一つとされています。

芸能や映像の仕事に興味があった沢村は法政大学第一高等学校(現在の法政大学高等学校)を卒業したあと、映画会社の大映に入社します。

研修の一環で日本大学芸術学部映画科に入学した沢村は、在学中に脚本を執筆し、テレビドラマに採用されたりしていました。

一方で、大学では剛柔流空手部に入り、3年時には全日本学生空手道選手権で優勝するなど活躍しました。

沢村の空手の戦績は60戦無敗でした。

そんな沢村の活躍がある男の目に留まりました。

その男とは、ボクシングのオーナーやプロモーターとして活動していた野口修です。

野口修

野口は、ボクシングで日本ウェルター級チャンピオンとなったライオン野口を父に持ち、弟・野口恭も日本フライ級チャンピオンとなりました。

ライオン野口

野口家は、日本初の親子二代チャンピオンとなったボクシング一家でした。

野口修自身は選手ではなくオーナーやプロモーターとして活動していましたが、世界タイトルマッチのプロモートを巡ってトラブルを起こし、ボクシング界を去ることとなりました。

ボクシング界を去った野口は1966年(昭和41年)1月に日本キックボクシング協会を設立し、4月に旗揚げ興行を行います。

そのキックボクシング旗揚げ興行で野口が目を付けたのが沢村でした。

野口に導かれた沢村は、まだ始まったばかりの新しい競技「キックボクシング」に参戦することとなりました。

この時、本名の白羽秀樹として過ごしていた沢村に、沢村忠というリングネームが与えられました。

こうして旗揚げ興行に大抜擢された沢村は、デビュー戦を2RKOで飾りました。

【真空飛び膝蹴り】

デビュー戦をKOで飾った沢村は、ムエタイファイター、サマンソー・アディソンと対戦します。

しかし、この試合で沢村は幾度となくダウンを喫し、4RKO負けとなりました。

また、25か所以上の打撲を負う重症となりました。

無惨な敗北を喫した沢村は奮起し、ここから猛特訓を重ねます。

必殺技の「真空飛び膝蹴り」を開発し、これを武器にKOの山を築いていきました。

真空飛び膝蹴り

「真空飛び膝蹴り」は、持ち前の脚力で空中へ飛び上がり、相手の後頭部や首筋に膝を打ち込む沢村の必殺技です。

沢村の身長は174cmでしたが、助走なしでの最高打点は185cmとされており、とてつもないジャンプ力を誇っていたことがわかります。

この「真空飛び膝蹴り」に、子どもたちは熱狂しました。

【国民的スターへ】

1968年(昭和43年)、TBSテレビでキックボクシング中継が始まり、沢村の試合はお茶の間に届くようになります。

また、同年には「週刊少年マガジン」で表紙を飾りました。

1969年(昭和44年)には、雑誌「少年画報」で沢村の半生を描いた漫画『キックの鬼(原作:梶原一騎)』の連載が始まり、同年の「週刊少年チャンピオン」創刊号では表紙を飾りました。

1970年(昭和45年)には『キックの鬼』のアニメ放送が始まりました。番組の視聴率は毎回30%を超え、沢村の絶大な人気にさらに拍車がかかりました。

1973年(昭和48年)には、プロ野球で三冠を達成した王貞治(読売ジャイアンツ)を抑え、日本プロスポーツ大賞を獲得しました。

王貞治

空前のキックボクシングブームを起こした沢村は、国民的スターとなりました。

【沢村の功績】

スーパースターとなった沢村は、日本キックボクシング協会認定東洋ミドル級王座を14度防衛し、同ライト級王座を20度防衛します。

しかし、そんな沢村にもグローブを置く時がやってきます。

1976年(昭和51年)7月に最終試合を行い、翌年10月に34歳で現役を引退しました。

沢村忠、戦績:241戦232勝(228KO)5敗4分。

驚異的な成績を残して沢村はリングを去りました。

引退後は自動車整備士の資格を取得し、都内で整備工場を経営しました。

また、神奈川県横須賀市の道場で子どもたちにキックボクシングを教え、競技の普及に尽力しました。

エースの沢村が引退した日本キックボクシング協会は人気が急落し、団体の分裂が起きました。

また、全日本キックボクシング連盟の創立など、新たなキックボクシング団体の設立も相次ぎました。

沢村がつけたキックボクシングの火は確実に燃え続け、1993年(平成5年)、石井和義によって打撃系格闘技イベント「K‐1」が創設されました。

個性豊かなファイターが大迫力で闘う「K‐1」は瞬く間に人気コンテンツとなり、総合格闘技イベント「PRIDE」とともに日本で格闘技ブームが巻き起こりました。

沢村が起こしたキックボクシングの火は、その後の日本格闘技界においてとても大きな役割を果たしました。

格闘技ブームは行ったり来たりを繰り返しますが、世界で名を馳す日本人キックボクサーは着実に誕生しています。

【沢村の死と評価】

2020年(令和2年)夏に腫瘍が見つかった沢村は、翌2021年(令和2年)3月に肺がんにより亡くなりました。78歳でした。

昭和の大スターの訃報に格闘技界からは哀悼の意が相次ぎました。

沢村が格闘技界に与えた影響は大きく、のちにシューティング(現:総合格闘技「修斗」)の創始者となる佐山聡(初代タイガーマスク)は、「格闘技を好きになったのは、小学生の時に沢村さんをテレビで観てから」と述べており、外国人選手として初めてムエタイのラジャダムナン王者となった藤原敏男も「キックボクシングを始めたのは、テレビで観た沢村さんに憧れて」と述べています。

一方で、沢村の試合のほとんどが「真剣勝負ではなかった」と言われており、その実力に疑問符をつける声もあります。

ただ、沢村の試合の多くがショー要素の強いものだったとしても、相手がセメント(シュート)を仕掛けてくる可能性もあり、沢村が弱ければそれらに対応できなかったと思われます。

また、沢村は天性の運動神経に加えて人並以上に練習していたと言われており、試合で凡庸な動きを見せていたらファンからも見限られていたと思われます。

沢村は、学生時代の空手でも60戦無敗という成績を残しており、実力も兼ね備えていたことがうかがえます。

ちなみに、ゲームやアニメで人気の「ポケットモンスター」に登場する「サワムラー」というポケモンは、沢村忠がモデルとなっています。

沢村があらゆるジャンルに影響を及ぼしたことがうかがえますね。

以上、戦後の格闘技界に空前のキックボクシングブームをつくった「キックの鬼」、沢村忠の生涯を解説しました。

YouTubeにも動画を投稿したのでぜひご覧ください🙇


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