【青い目の侍】アンディ・フグの生涯
みなさんは、踵落としや下段後ろ回し蹴りといった多彩な武器で観客を魅了し、1996年(平成8年)のK‐1GPで優勝した格闘家、アンディ・フグをご存知でしょうか?
1993年(平成5年)に産声を上げたK‐1において、アンディは一躍スター選手となり、CMやテレビ番組にも出演し、創成期K‐1の顔的存在となりました。
今回は、不屈の精神でK‐1の頂点に上り詰め、白血病により現役のまま旅立った格闘家、アンディ・フグの生涯を解説します。
【生い立ち】
アンディは、1964年9月、スイスのチューリッヒに生まれました。
フランス外国人部隊に所属していたアンディの父は早くに亡くなったため、アンディは母によって児童養護施設に預けられました。
その後、祖父母に引き取られたアンディはサッカーに興じ、ブルース・リーに憧れて極真空手を始めます。
サッカーではU‐16スイス代表に選ばれるほどの実力でしたが、プロ契約の話が浮上し、空手かサッカーか選ぶこととなったアンディは空手の道を選択します。
空手でも天賦の才を持っていたアンディは、若くして頭角を現していきます。
【極真での活躍】
アンディは、1985年の極真ヨーロッパ選手権で優勝し、1987年には、極真の最強を決める大会「オープントーナメント全世界空手道選手権大会(極真世界大会)」で準優勝します。
ちなみに、アンディが決勝で敗れた相手は、極真創始者・大山倍達をして「半世紀に一人現れるか現れないかの人物」と言わしめ、後に極真会館(松井派)館長となる松井章圭です。
1987年の世界大会で惜しくも優勝を逃したアンディは、1989年のヨーロッパ選手権で2度目の優勝を果たし、1991年のヨーロッパ選手権では準優勝するなど活躍していきます。
そして、1991年(平成3年)の世界大会において、アンディは後に因縁の相手となる空手家と対戦します。
後に世界大会覇者となり、「極真の怪物」の異名を持つフランシスコ・フィリォです。
フィリォとの一戦は、1991年の第5回世界大会、4回戦で行われました。
両者一歩も譲らぬ死闘は延長2回を迎えます。
しかし、審判の止めが入った際に放ったフィリォの上段回し蹴りがアンディを捉え、アンディは失神しました。
止めが入った後の攻撃は本来反則ですが、最高審判長であった大山倍達の「止めがかかったとはいえ、その不意をつかれる者は勝者ではない」という判断により、フィリォの一本勝ちとなりました。
アンディにとっては手痛い敗北となりました。
【K‐1チャンピオン】
アンディは、極真会館を退館し、石井和義が設立した空手団体「正道会館」に移籍しました。
グローブ空手で顔面攻撃ありの闘いを経験したアンディは、石井和義が新たに設立した打撃系格闘技イベント「K‐1」に参戦します。
1994年(平成6年)3月、初代K‐1GP王者のブランコ・シカティックと対戦し、判定3-0で勝利する番狂わせを起こします。
キックボクシングでもトップクラスの実力であると証明したアンディは、1994年のK‐1GPトーナメントに参戦するも1回戦でパトリック・スミスにKO負けを喫し、翌1995年のK‐1GPでも1回戦でマイク・ベルナルドに敗北しました。
ベルナルドとは半年後にリマッチを行いますが、ここでもKO負けを喫しました。
2年連続初戦敗退となったアンディは、1996年(平成8年)、3度目の挑戦となるK‐1GPに挑みます。
3月の1回戦でバート・ベイルにKO勝ちしたアンディは鬼門だった初戦を突破し、5月のGP決勝大会に進みます。
準々決勝でバンダー・マーブをKOしたアンディは、準決勝で、後にK‐1を4度制し「ミスター・パーフェクト」と呼ばれることになる強豪、アーネスト・ホーストと対戦します。
両者一歩も譲らぬ展開となり、再延長までもつれた激闘は、判定2-1でアンディが制しました。
そして迎えた決勝戦、アンディの前に立ちはだかったのは、過去に2度KO負けを喫している剛腕ファイター、マイク・ベルナルドです。
過去に2度敗れ、苦手意識を持つ相手にアンディは臆せず攻撃を繰り出し、2R、必殺の下段後ろ回し蹴り(フグトルネード)をヒットさせ、KOでリベンジを果たしました。
ベルナルドが倒れ、10カウントを数える際は、アンディと観客がともに声を出し会場が一体となりました。
極真では世界大会優勝を逃し、K‐1GPでも過去2度の挑戦で1回戦敗退となっていたアンディは、ついに悲願のK‐1GP優勝を果たし、立ち技最強の男となりました。
ヘビー級の中では決して大きくない体で強敵に喰らいつき、不屈の精神で闘い続けるアンディの姿は観客を魅了し、いつからか「青い目の侍」「鉄人」「ミスターK‐1」などと呼ばれるようになります。
【K‐1ブーム】
1993年(平成5年)に始まったK‐1は、個性豊かなファイターたちが繰り出す大迫力の激闘により、瞬く間にブームを巻き起こします。
アンディが優勝した1996年からは、フジテレビで全国ネットのゴールデンタイム放送が始まり、翌1997年にはナゴヤドーム、大阪ドーム、東京ドームで大会を行います。
東京ドームで開催されたK‐1GP決勝大会は5万4000人を超える観客を動員し、平均視聴率20.7%、瞬間最高視聴率27.3%を記録しました。
1998年(平成10年)には、日本人選手を主軸とする「K‐1JAPAN」シリーズを立ち上げ、日本テレビで放送されることとなります。
アンディ・フグ、ピーター・アーツ、アーネスト・ホースト、マイク・ベルナルドの4人は「K‐1四天王」と称され、その個性的なキャラクターでCMやテレビ番組でも大いに活躍しました。
この頃のK‐1は、ドームで大会を開催して多くの観客を動員し、地上波ゴールデンタイムで放送され高視聴率をたたき出し、会場にはハリウッドスターやスポーツ選手、芸能人などが訪れ、選手はCMやテレビ番組に起用され、大会には日清食品などの大手企業がスポンサーに付き、まさに飛ぶ鳥を落とす勢いで拡大していきました。
【“極真の怪物”】
K‐1ブームを牽引する立役者となったアンディは、GP優勝翌年の1997年、極真時代の因縁の相手、フランシスコ・フィリォと対戦します。
アンディとフィリォは1991年の極真世界大会で対戦し、審判の止めが入った際に放ったフィリォの上段回し蹴りによってアンディが失神し、フィリォが一本勝ちを収めたという過去があります。
この時のフィリォは、1997年に行われた第1回全世界ウェイト制空手道選手権大会の重量級を制し、極真を背負ってK‐1に参戦しました。
K‐1王者アンディ vs 極真重量級覇者フィリォ、6年ぶりの再戦、“極真の怪物”フィリォのK‐1電撃参戦などの数々のドラマが詰まったこの一戦は、またしても衝撃的な結末を迎えます。
両者静かな立ち上がりを見せた闘いは1R後半に動きました。
K‐1王者アンディが距離を詰めたところ、“極真の怪物”フィリォが一瞬の隙をついて放った右フックにより、一撃でアンディが失神しました。
これにより、アンディは6年越しのリベンジに失敗しました。
そして、K‐1王者を一撃で仕留めたフィリォの姿に人々は戦慄しました。
【“20世紀最強の暴君”】
フィリォに返り討ちにされたアンディは、1997年9月のK‐1GPでピア・ゲネットにKO勝ちして復帰戦を白星で飾り、決勝大会に進出します。
準々決勝で佐竹雅昭を破ったアンディは、1994年&1995年のGP王者で後に「20世紀最強の暴君」と称される強豪、ピーター・アーツと激突します。
過去の対戦成績では1勝1敗とイーブンの両者は、果敢に攻めたアンディに軍配が上がりました。
アーツを破ったアンディは、決勝でアーネスト・ホーストと対戦します。
この試合は、前年の準決勝同様に接戦となるもホーストに軍配が上がり、アンディはK‐1GP連覇を逃しました。
翌1998年のGPでも難なく1回戦を突破したアンディは、準々決勝でレイ・セフォー、準決勝でサム・グレコを破り、決勝に進出します。
決勝の相手は、過去に2勝1敗と勝ち越しているピーター・アーツです。
ただ、この時のアーツはすさまじい強さを誇っており、準々決勝で佐竹雅昭、準決勝でマイク・ベルナルドを1RでKOし、完全無欠状態でした。
1996年のGP王者アンディ、1994年&1995年のGP王者アーツ、K‐1覇者同士の対戦となった決勝は、異様な緊張感に包まれて幕を開けます。
1R1分が過ぎたころ、果敢に攻めるアーツの放った左ハイキックがアンディを捉え、アンディはダウンしました。
ダメージが深く、立ち上がることができないアンディはKO負けとなり、アーツが3度目のGP王者となりました。
一方で、アンディは3年連続でファイナリストとなっており、これは2007年にセーム・シュルトに破られるまでは唯一の記録でした。
【突然の死】
1999年(平成11年)のGPでは、1回戦で天田ヒロミをKOするも、準々決勝でホーストに敗れ、ベスト8で終わります。
翌2000年6月、母国スイスで行われたK‐1の大会で前年のGP準優勝者ミルコ・クロコップと対戦し、判定勝ちを収めます。
1か月後にはノブ・ハヤシと対戦して1RKOで仕留め、K‐1王座奪還へはずみをつけました。
しかし、その1か月半後、驚きのニュースが日本中を駆け巡ります。
正道会館東京本部で記者会見が行われ、アンディが急性骨髄性白血病により、危篤状態にあることが発表されました。
アンディは危篤に陥る前、ファンに向けたメッセージをK‐1サイドに託していました。
「ファンの皆さん、突然このような状態に私が陥ってしまったことで、大変ショックを与えたかと思います。私自身、ドクターから症状を聞いたときには非常にショックを受けました。しかし、私は今自分が陥っている状況をファンの皆さんに告げることで、ファンの皆さんとともにこの病気と闘っていきたいと思います。今度の敵は私が闘った中でも一番の強敵です。日本でこの病気と闘い、いつの日にか必ず皆さんの前に現れたいと思います」(一部省略)
しかし、アンディの闘志及ばず、記者会見から4時間後、アンディは現役格闘家のままこの世を去りました。
35歳でした。
アンディ・フグ、戦績47戦37勝9敗1分。
何度負けても諦めない不屈の精神でK‐1王者となり、飾らない人柄で日本国民から愛されたスターは若くして旅立ちました。
「死ぬ時は日本で死にたい」という本人の希望により、葬儀は麻布の善福寺で日本式により営まれ、告別式には、関係者を含め1万2000人のファンが参列しました。
アンディと4度対戦したピーター・アーツは、「K‐1ファイターの中で1番の親友だった。空手からK‐1という慣れないルールの中でベストファイターに上り詰めたアンディには、“敬意を表する”という言葉以外見当たらない」「アンディのことは絶対に忘れない」とコメントし、かつてアンディの前に大きな壁として立ちはだかったマイク・ベルナルドは、プロボクシングに専念する予定を取りやめ、アンディが出場予定だったK‐1GP予選トーナメントに代打で出場し、全試合でKO勝ちを収め、アンディに優勝を捧げました。
アンディの精神は次世代のファイターたちにも影響を与え、後に初代K‐1ヘビー級王者となるバダ・ハリは最も尊敬するファイターの1人としてアンディの名を挙げ、K‐1史上初の3階級制覇を達成した武尊は、アンディについて「僕がK‐1という夢を持つキッカケになった人」と述べ、命日にはその死を悼んでいます。
以上、飾らない人柄と不屈の精神で人気を集め、創成期のK‐1ブームを牽引し、次世代のファイターたちに多大な影響を与えた「鉄人」、アンディ・フグの生涯を解説しました。
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