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【神の子】山本“KID”徳郁の生涯

みなさんは、破壊力抜群の打撃で一世を風靡し「神の子」と呼ばれた格闘家、山本“KID”徳郁をご存知でしょうか?

KIDはレスリングで活躍した後に総合格闘技へ転向し、2005年にはHERO'Sミドル級トーナメントを制しました。

持ち前のキャラクターとカリスマ性によってCMやテレビ番組にも出演し、日本格闘技界を代表する存在となりました。

今回は、抜群の身体能力と打撃センスで2000年代の格闘技界を牽引し、最期は癌により現役のまま旅立った格闘家、山本“KID”徳郁の生涯を解説します。

【生い立ち】

山本“KID”徳郁は、1977年(昭和52年)3月、神奈川県川崎市に生まれました。

父・山本郁榮は生粋のアスリートで、全日本レスリング選手権を3度制し、1972年(昭和47年)には日本代表としてミュンヘンオリンピックに出場しています。

ちなみに、郁榮はミュンヘンオリンピック5回戦で不可解な判定負けを喫し、その郁榮に勝利したソ連のロスタム・カザコフが大会を優勝したことから「幻の金メダル」と言われています。

そんなトップアスリートである郁榮の元に育ったKIDは、幼い頃からレスリングに親しみました。

山梨学院大学時代には全日本学生レスリング選手権で優勝し、1999年には全日本レスリング選手権で準優勝します。

レスリングで数々の実績を残したKIDですが、目標だったオリンピックへの出場は叶いませんでした。

そして、姉・美憂の夫(当時)であるエンセン井上の影響もあり、総合格闘技への転向を決意しました。

ちなみに、KIDの姉・美憂はレスリング世界選手権で3度優勝し、妹・聖子はレスリング世界選手権で4度優勝しています。

【修斗での活躍】

修斗の初代世界ヘビー級王者・エンセン井上から総合格闘技の指導を受けたKIDはメキメキと成長し、2000年(平成12年)にアマチュア修斗へ参戦します。

持ち前の身体能力で総合格闘技の才能を開花させたKIDは、全日本アマチュア修斗選手権のライト級で優勝しました。

そして、翌2001年(平成13年)にプロデビューし、破竹の3連勝を飾ります。

2002年(平成14年)5月のステファン・パーリング戦では額のカットによるドクターストップでキャリア初の敗北を喫しますが、同年9月、プロ6戦目で勝田哲夫と対戦し、パウンドアウトで1RKO勝利を飾ります。

しかし、レフェリーが試合をストップした後もKIDがかまわず攻撃を続けたため、120日間のライセンス停止処分を受けました。

KIDがレフェリーの制止を振り切り、失神した勝田を殴り続けるという衝撃的な試合でした。

その後、ジェフ・カランやケイレブ・ミッチェルに勝利し、修斗世界ライト級王座への挑戦が予定されますが、負傷により欠場となりました。

【K‐1参戦】

2004年(平成16年)2月、KIDは打撃系格闘技イベント「K‐1」に参戦します。

K‐1 МAX日本代表決定トーナメントに出場したKIDは1回戦で村浜武洋と対戦しました。

村浜はシュートボクシングやプロレスを経てK‐1に参戦し、前年(2003年)のK‐1 МAX日本代表決定トーナメントでは、後に世界王者になる魔裟斗を追い詰めた実力者です。

そんな格上の村浜を相手にK‐1ルール初挑戦となったKIDは臆せず戦い、スピードとパワーで翻弄して2RKO勝利を飾りました。

野性味あふれるファイトスタイルで格上の村浜を圧倒したKIDの姿に、観客は度肝を抜かれました。

しかし、KIDはこの試合で拳を負傷し、準決勝を棄権することとなりました。

その後、K‐1の舞台でトニー・バレントと総合格闘技(ММA)ルールで対戦し、1R一本勝ちを収め、3か月後には空手家・安廣一哉とミックスルールで対戦して2R一本勝ちを収めます。

2004年10月、KIDはジャダンバ・ナラントンガラグとММAルールで対戦しました。

ナラントンガラグはアルバート・クラウスや魔裟斗といったK‐1 МAX王者たちを追い詰め、「モンゴル中量級最強戦士」の異名を持つ実力者です。

中量級のなかでも小柄であるKIDとナラントンガラグの体格差は歴然でしたが、KIDは強豪ナラントンガラグを1Rわずか2分足らずでKOしました。

ナラントンガラグにパンチを浴びせるKID

ちなみに、ナラントンガラグは後にLFCやONEで王座戴冠し、実力を証明しています。

ナラントンガラグを豪快にKOしたKIDは、試合後のリングでこのようにマイクアピールしました。

「年末俺が盛り上げたいから、魔裟斗くん、2人でちょっと試合でもして、日本を盛り上げましょう」

KIDはこの試合を解説席で見ていた魔裟斗に、唐突に宣戦布告しました。

魔裟斗に宣戦布告するKID

KIDから挑戦状を突き付けられた魔裟斗は笑顔でマイクパフォーマンスを聞いていましたが、KIDがリングから降りるとそれまでの笑顔は消え、険しい表情でこう述べました。

「ルール次第ではやってもいいよ。俺はK‐1(ルール)じゃ絶対に負けないから」

魔裟斗がKIDを対戦相手として意識した瞬間でした。

控え室に戻りながらKIDはこう呟きました。

「やっぱ俺強え」

【世紀のカリスマ対決 魔裟斗 vs KID】

KIDが魔裟斗に対戦表明してから2週間後、大晦日に行われる「K-1 PREMIUM 2004 Dynamite!!」の対戦カードとして魔裟斗 vs KIDの試合(K‐1ルール)が正式に発表されました。

試合が決まると両者は舌戦を繰り広げました。

山本“KID”徳郁「魔裟斗君も今俺とやっといた方がいい。これからもうちょいして俺とやったら勝ち目はない、彼には」

魔裟斗「(この試合は)俺にはメリット何もないじゃないですか。勝って当たり前って思うでしょ?」「メリットないのに何で受けたかって言うと、ラクな試合だから」

山本“KID”徳郁「(魔裟斗に)勝てる自信はある」「何で自信あるか? 俺だから」

魔裟斗「(KIDのことは)何とも思わない、俺と同じレベルじゃないから」

2004年12月31日、当時の格闘技界で絶大な人気を誇っていた2人のカリスマがついに激突しました。

2人が向き合うと会場からは歓声が飛び交いました。

計量時の体重は魔裟斗が69.5kg、KIDが64.5kgでした。

凄まじい緊張感のなか試合が始まり、両者とも相手の力量を探るかのように徐々に攻撃を出していきます。

1Rの1分が過ぎたころ、魔裟斗のローキックがKIDの金的を捉えました。

時間が止められますが、KIDのダメージはそこまで深くなく、すぐに試合が再開されます。

1R1分40秒、KIDの放った左ストレートが魔裟斗の顔面を捉え、魔裟斗がダウンしました。

魔裟斗がダウンするのは2002年5月のアルバート・クラウス戦以来、2年7か月ぶりのことでした。

しかしその後、この試合の成り行きを左右するような大きな出来事が起きました。

魔裟斗の放ったローキックが再度KIDの金的を捉えました。

ただ、1度目と違い2度目はモロに金的を捉え、鈍い音が会場に響き渡りました。

KIDは思わず前かがみに崩れ落ち、すぐにドクターが駆け付けました。

KIDのダメージは凄まじく、解説の船木誠勝が「試合続行は難しい」と述べるほどでした。

あまりのダメージにKIDの目には涙が浮かんでいました。

試合中止も考えられたなか、なんとKIDは「大丈夫」と言って試合続行を選択します。

こうして試合が再開され、1Rが終了します。

2R30秒、今度は魔裟斗が放った右ハイキックがKIDの顎を捉え、KIDがスタンディングダウンを喫しました。

迎えた3R、魔裟斗が体格差を活かして有効打を当てていき、試合が終了しました。

決着は判定に委ねられました。

結果は判定2-0により魔裟斗が勝利しました。

決着がついた後、両者は笑顔で抱き合いました。

試合後、魔裟斗はマイクでこう語りました。

「1R目のローブロー(金的)は、KID本当にごめん、本当に悪かった」「俺より体重が5kg軽いのにダウンを取られたのも本当さすがだな」

体重が5kgも軽く、K-1ルール2戦目であり、かつ金的のダメージを負ったにも関わらず、前年のK-1王者・魔裟斗を相手に互角以上に戦ったKIDには惜しみない拍手が送られました。

日本中が注目したカリスマ対決はこうして幕を閉じました。

この試合はTBSで中継され、瞬間最高視聴率31・6%を記録しました。

【失神と世界王者】

世紀のカリスマ対決から4か月ほどたった2005年5月、KIDはまたしてもK-1ルールで試合を行いました。

相手は「鉄の拳」の異名を持つ剛腕ファイター、マイク・ザンビディスです。

魔裟斗と互角以上に渡り合ったKIDの人気はうなぎ登りとなっており、会場からは大声援が送られました。

KIDがザンビディスの強打に苦しむ展開が見られるものの、試合は3Rまでもつれ込みました。

しかし、3Rの30秒ほどが過ぎたころ、KIDが放った右のパンチに対して、ザンビディスがカウンターの右フックをヒットさせ、KIDはマットに倒れ込みました。

KIDは立ち上がることができず、キャリア初となる失神KO負けとなりました。

試合後の会見でKIDはこう語りました。

「超きもちかった。何も覚えてないけどきもちかった」「頑張りたくなってきた、こんなこともあるんだな」

2005年7月、KIDは4か月前に誕生したばかりの総合格闘技イベント「HERO'S」に参戦します。

「豪州のハリケーン」の異名を持つイアン・シャファーと対戦し、3RKO勝ちを収めました。

その2か月後、HERO'Sミドル級トーナメント準々決勝に出場したKIDは、ホイラー・グレイシーと対戦しました。

ホイラー・グレイシー

「神の子 vs グレイシー一族」という激突に格闘技界が注目しました。

グレイシー一族

1Rは両者静かな立ち上がりとなりましたが、迎えた2R、いっきに試合が動きました。

ホイラーの放った膝蹴りにKIDがカウンターの右フックを合わせ、ホイラーは大の字に倒れました。

KIDがフック一発でホイラーを失神KOし、トーナメント準決勝に進出しました。

ホイラーに右フックを見舞うKID

準決勝では元修斗王者の宇野薫と対戦し、パンチで流血に追い込みドクターストップによるTKO勝ちを収めました。

そして決勝は、山本“KID”徳郁 vs 須藤元気という組み合わせになりました。

決勝は大晦日に大阪ドームで開催された「K-1 PREMIUM 2005 Dynamite!!」のメインイベントとして行われました。

時代の寵児となっていたカリスマ格闘家のKIDと、映画やテレビドラマに出演し多彩な活動を行うトリッキーな格闘家・須藤元気の激突に日本中が注目しました。

山本“KID”徳郁 vs 須藤元気

1Rの4分30秒が過ぎたころ、須藤が強引に前に出て右ストレートを放ったところにKIDの右フックがカウンターで入り、須藤がダウンします。

すかさずKIDはパウンドを連打し、1RKOで須藤を葬りました。

70kg級のトーナメントであるHERO'Sミドル級トーナメントは、体重が65kgにも満たない小柄なKIDが圧倒的な実力を見せて優勝し、幕を閉じました。

KIDの弟子であり、修斗、RIZIN、Bellatorで王者になった堀口恭司はこう語っています。

「自分も体が小さいし、KIDさんの試合を見てこのスタイルなら自分にもできると思ってKRAZY BEE(KIDのジム)を選んだ。KIDさんに初めて会った時に『内弟子にしてください』と言ったら『いいよ』って一瞬で決まった」

【秒殺KOとレスリング復帰】

HERO'Sミドル級王者となったKIDは2006年5月、シドニー五輪レスリング日本代表の実績を持つ宮田和幸と対戦します。

試合前のインタビューでKIDは「スパーンと一発で決める」と発言しました。

そして当日、KIDは驚くべき技で観客の度肝を抜きます。

試合開始のゴングが鳴るとKIDは宮田のもとに走り出し、そのままジャンプして宮田に飛び膝蹴りを喰らわせました。

宮田に飛び膝蹴りを喰らわすKID

これがクリーンヒットして宮田は大の字に倒れ、1Rわずか4秒でKIDがKO勝ちを収めました。

KIDは「神の子」の異名に違わぬ衝撃的なKO劇を披露しました。

試合後、KIDはマイクでこう呟きました。

「やばい、カッコよすぎる俺」

秒殺KO劇から2か月後の2006年7月、KIDは記者会見を行い、レスリングに復帰して2008年の北京オリンピック出場を目指すと宣言しました。

この年の大晦日、一時的な復帰として総合格闘技のリングに戻ったKIDは、アテネ五輪レスリング金メダリストのイストバン・マヨロシュと対戦し、1RKO勝ちを収めます。

しかし、翌2007年1月に出場した全日本レスリング選手権でKIDをアクシデントが襲います。

無事に1回戦を突破したKIDは、2回戦でアテネオリンピック銅メダルの実績を持つ強豪と対戦しました。

相手の投げ技でKIDは右肘を脱臼し、救急車で運ばれました。

KIDは全治4か月の重傷を負いました。

その後KIDは、オリンピック出場に一縷の望みをかけて2007年6月の全日本選抜選手権を目指しますが、肘が完治せず万全の状態ではなかったため、出場を取りやめました。

こうしてオリンピック出場というKIDの夢は絶望的な状況となりました。

【総合格闘技復帰と低迷】

オリンピック出場が絶望的となったKIDは2007年9月、総合格闘技(MMA)に本格復帰し、柔術世界選手権を制した寝技師ビビアーノ・フェルナンデスと対戦しました。

KID vs ビビアーノ

1Rに腕ひしぎ十字固めを極めかけられるなどピンチに陥りましたが、その後は終始試合を支配し、ビビアーノに判定勝ちしました。

ちなみに、ビビアーノは後にDREAMやONEで王座戴冠し、MMAの才能を開花させています。

この年の大晦日、KIDは柔術家のハニ・ヤヒーラと対戦し、2RKO勝ちを収めます。

2008年(平成20年)には、HERO'Sと旧PRIDEスタッフが立ち上げた格闘技イベント「DREAM」に参戦することが発表されました。

しかし、練習中に右膝前十字靭帯を断裂するという大怪我を負い、手術を行います。

翌2009年5月にようやく復帰しますが、レスリング世界選手権優勝という実績を持つジョー・ウォーレンに判定1ー2で敗北します。

その1か月半後、敗北を払拭するために約4年2か月ぶりにK-1ルールで試合を行いますが、ムエタイをバックボーンに持つチョン・ジェヒに1RKO負けを喫しました。

大晦日には戦極フェザー級王者の金原正徳に判定負けし、復帰から3連敗となりました。

金原に判定負けするKID

前十字靭帯断裂という大怪我を負って以降、KIDの戦績は低迷していきました。

2010年(平成22年)5月、さいたまスーパーアリーナで開催された「DREAM.14」でキコ・ロペスと対戦し、右フックからのパウンドでKO勝利を収めます。

KIDにとって2年5か月ぶりとなる勝利でした。

そして、翌2011年、KIDは世界最高峰の総合格闘技団体「UFC」へ参戦します。

UFC

UFC参戦後も度重なる怪我に悩まされ、KIDのUFC戦績は4戦0勝3敗1無効試合でした。

2018年(平成30年)8月26日、KIDは自身のInstagramである発表を行いました。

「私事で急なご報告となりますが、私山本KID徳郁はガン治療のために頑張っています。
絶対元気になって、帰ってきたいと強く思っていますので温かいサポートをよろしくお願いします!」

山本“KID”徳郁 Instagramより

KIDの近影がひどく瘦せており、体調を心配する声が出ていた中での告白でした。

しかし、この投稿から約3週間後の9月18日、所属ジムの公式SNSにより、KIDが天国へ旅立ったことが発表されました。

山本“KID”徳郁、享年41。

かつて「世紀のカリスマ対決」としてKIDと対戦した魔裟斗は、こう語りました。

魔裟斗

「63戦したんですけど、あの時の試合が唯一戦っていて楽しかった試合」「最初で最後の楽しかった試合だなという気がします」

多くのファンや選手を虜にしたKIDは、記憶にも記録にも残る名選手としてファンの心の中に生き続けています。

以上、体重差をものともせず強敵を次々蹴散らし、持ち前のキャラクターとカリスマ性によって時代の寵児となった格闘家、山本“KID”徳郁の生涯を解説しました。

YouTubeにも動画を投稿したのでぜひご覧ください🙇


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