【褐色の爆撃機】ジョー・ルイスの生涯
みなさんは、ジャック・ジョンソン以来史上2人目となる黒人の世界ヘビー級王者となったボクサー、ジョー・ルイスをご存知でしょうか?
ルイスは破壊力抜群の強打で高いKO率を誇り、「褐色の爆撃機」と呼ばれ、未だ破られていない世界戦25回連続防衛という記録を達成しました。
今回は、“史上最高のヘビー級ボクサー”ジョー・ルイスの生涯を解説します。
【生い立ち】
ルイスは1914年、アメリカ・アラバマ州の貧しい農村に生まれました。
ルイスの両親は元奴隷の子どもで、父はルイスが生まれてすぐ精神病院に収容されたため、ルイスは父を知らずに育ちます。
言語障害に苦しんだルイスは、6歳までほとんど話すことができなかったと言われています。
また、アラバマ州はアメリカの中でも特に黒人差別が激しく、12歳の頃、白人至上主義団体に脅迫されたことが原因で一家はミシガン州のデトロイトに移住しました。
1932年、17歳でアマチュアボクシングデビューしたルイスは、50勝4敗(53勝3敗とも)という好成績を収めます。
そして、1934年、ルイスは20歳でプロデビューを果たしました。
【黒人差別】
ボクシングの才能に恵まれたルイスはデビュー1年目で12試合行い、全勝します。
しかし、人種差別の激しかった当時のアメリカにおいて、ルイスが黒人のヘビー級ボクサーであるという点は暗い影を落としていました。
黒人初の世界ヘビー級王者ジャック・ジョンソンが奔放な振る舞いで白人たちの怒りを買ったため、白人たちは黒人の世界ヘビー級王者誕生を警戒していました。
そのためルイス陣営は、ルイスの謙虚さとスポーツマンシップをアピールすることでジョンソンのイメージを払拭し、世界ヘビー級王座挑戦への道を切り開こうとしていました。
ルイス陣営は「白人女性と一緒に写真を撮らない」「リングに倒れた対戦相手をあざ笑わない」「八百長試合に関与しない」などの「7つの戒め」を作り、ルイスのメディアイメージを慎重に作りました。
トレーナーのブラックバーンはルイスにこう言いました。
「黒人が白人と戦って判定で勝つことは難しい。お前にはハンデがあるんだ。だから白人に勝つには相手をKOするしかない」
ルイスは忠告通り、対戦相手を次々早いラウンドで仕留めていきました。
ルイスの品行方正なふるまいとリング上での圧倒的な強さに魅了され、瞬く間にファンは増えていきました。
1935年6月、ルイスは「動くアルプス」の異名を持つ元世界ヘビー級王者プリモ・カルネラと対戦します。
カルネラは身長約2m、体重約120kgという巨体を武器にチャンピオンまで上り詰めた名ボクサーです。
ルイスはこの巨人を相手に臆せず闘い、6RKOで葬りました。
【代理戦争】
1936年6月、24戦全勝と負けなしで快進撃を続けていたルイスは、元世界ヘビー級王者マックス・シュメリングと対戦します。
シュメリングはドイツに生まれ、ドイツライトヘビー級王座、ヨーロッパライトヘビー級王座、ドイツヘビー級王座を獲得し、世界ヘビー級王者となった技巧派ボクサーです。
この頃、シュメリングの出身国ドイツではアドルフ・ヒトラー率いるナチスが政権を掌握していたため、ルイスとシュメリングの対戦は「民主主義のアメリカ vs ファシズムのドイツ」というストーリーラインで見られました。
この激突は、「アメリカ vs ドイツ」の代理戦争の様相を呈していたのです。
黒人差別に苦しみ、白人の反感を買わないように振る舞っていたルイスは、図らずもアメリカ民主主義を体現するボクサーとして担ぎ上げられたのでした。
ルイスがジャブを打つ際にガードが下がる癖を見抜いたシュメリングは、4Rにルイスのジャブに右クロスを合わせてルイスからキャリア初のダウンを奪います。
ペースを握ったシュメリングは12Rにもダウンを奪い、KOでルイスを沈めました。
ルイスはプロ25戦目にして初黒星を喫しました。
代理戦争で敗北したことにより、アメリカ中が悲嘆に暮れました(※ただし、黒人を敵視する一部の白人はシュメリングの勝利を喜んだ)。
一方でドイツは歓喜に湧き、ヒトラーはシュメリングの妻に、シュメリングを激励するメッセージを送りました。
ドイツの新聞は、シュメリングの勝利はヒトラー主義の勝利だと書きました。
1937年7月、ルイスは世界ヘビー級王者ジェームス・J・ブラドックのタイトルに挑戦します。
当初は、ルイスに勝利したシュメリングがブラドックのタイトルに挑戦するはずでした。
ただ、ルイス vs ブラドックの方がお金になることやナチスが世界王座を悪用する恐れがあるといった政治的な思惑により、シュメリングではなくルイスがブラドックに挑戦することとなりました。
このニュースは全米を揺るがせました。
1915年のジャック・ジョンソン以来、22年ぶりに黒人ボクサーが世界ヘビー級タイトルマッチのリングに上がることとなったのです。
1R中盤、ブラドックは右のカウンターを決めてルイスからダウンを奪います。
チャンピオンの老獪なテクニックに苦戦するルイスですが、3Rからは徐々にルイスの強打がチャンピオンの顔面を捉えはじめます。
迎えた8R、ルイスの強烈な右により、ブラドックはマットに沈みました。
こうしてジャック・ジョンソン以来、黒人では2人目となる世界ヘビー級王者が誕生しました。
チャンピオンとなったルイスはコンスタントに防衛戦を行いました。
【代理戦争 第2戦】
ナチスの膨張傾向により、アメリカではますます反ドイツ感情が高まっていました。
そして、1938年6月、ついにジョー・ルイス vs マックス・シュメリングのリマッチが実現しました。
第二次世界大戦の足音が迫っていたなか行われたこの一戦は、前回以上に「民主主義のアメリカ vs ファシズムのドイツ」という代理戦争の様相を呈していました。
この対決はアメリカのヤンキー・スタジアムで行われましたが、シュメリングが宿泊するホテルの前では反ナチスの抗議運動が繰り広げられ、シュメリングには脅迫の手紙が送りつけられるなど、スポーツの枠を超えた異様な盛り上がりとなっていました。
こうした社会的背景もあり、ヤンキー・スタジアムには7万を超す観衆が訪れ、世界で1億人以上がラジオ中継を聴取しました。
この頃の世界人口は21億~24億人ほどと推計されており、世界のおよそ20人に1人がこの試合の中継を見守っていたことになります。
空前の盛り上がりを見せていたこの一戦に対して、ルイスは万全の状態で臨み、シュメリングから1Rに3回ダウンを奪い、初回KOでリベンジを果たしました。
ルイスの勝利にアメリカ中が歓喜に包まれました。
一方、国家の威信を懸けた一戦に敗れたシュメリングに対してナチスは失望し、シュメリングを国民的英雄として扱うことをやめました。
こうしてシュメリングとナチスの間には溝が生じていき、シュメリングはナチスへの入党を断るなど反旗を翻していきました。
ちなみに、1948年に引退したシュメリングは、実業の世界で成功し、篤志家として恵まれない人々の支援活動を行いました。
晩年、ルイス戦のことを聞かれたシュメリングは、「あの試合に負けて本当に良かった。もし勝ってドイツに帰国していたら、ナチスから勲章を与えられ、終戦後に戦争犯罪者と見なされていたかもしれない」と語っています。
【戦争とルイス】
1939年9月、ナチス・ドイツがポーランドに侵攻し、第二次世界大戦が勃発します。
この頃、ルイスは8度目の防衛戦をKO勝利で飾っていました。
その後も強敵を蹴散らしてタイトルを防衛し続けたルイスは、1941年6月、ライトヘビー級で世界王者となり、ヘビー級でも快進撃を続けていたアイルランド系アメリカ人、ビリー・コンを相手に18度目の防衛戦を行いました。
両者には圧倒的な体格差があり、誰もがルイスのワンサイドゲームを予想する中、コンは持ち前のスピードでルイスを翻弄し、観客を驚かせます。
12R終了時点のジャッジではコンが優勢となっており、歴史的な番狂わせが起こりつつありました。
しかし、13R、コンビネーションを仕掛けるコンにルイスのカウンターがヒットし、一気に形勢逆転、最後は強烈な右フックを見舞い、ルイスが逆転KOでタイトル防衛に成功しました。
ルイスがタイトル防衛を重ねている間もヨーロッパ戦線は激しさを増していき、1941年12月、日本がアメリカの真珠湾を攻撃し、アメリカも戦争状態に陥りました。
現役のボクシング世界王者でありながら、ルイスは「政府が自分を必要とすれば、いつでも徴兵に応じる」と発言し、1942年、アメリカ陸軍への入隊を志願します。
国民的英雄であるルイスは戦場には出ず、ボクシング界のスーパースター、シュガー・レイ・ロビンソンらと共に各地を回ってエキシビションを行い、兵士の士気を高めました。
終戦後の1945年9月、アメリカ兵の士気向上に貢献したとして、ルイスには勲章が授与されました。
しかし、アスリートとしての貴重な時間を戦争によって奪われたルイスは、軍隊生活中に多額の借金を背負うこととなりました。
1946年6月、5年前に激闘を演じた因縁の相手ビリー・コンと再び対戦します。
この試合でKO勝ちを収め、コンを返り討ちにしたルイスはこれで22度目のタイトル防衛に成功しました。
【引退と復帰】
1947年12月、ルイスは後に世界ヘビー級王者となるジャーシー・ジョー・ウォルコットと対戦します。
この試合では、ダウンを奪われるなど大苦戦したルイスでしたが、判定2-1により辛くも勝利しました。
ルイスの勝利を聞いた観客からブーイングが起きるほど、ルイスにとっては厳しい試合内容でした。
そして、翌1948年6月にルイスはウォルコットとダイレクトリマッチを行います。
ここでもダウンを奪われるなど苦戦しますが、最終的に11RKOでウォルコットを仕留め、25度目の王座防衛に成功しました。
この試合で現役を引退したルイスですが、多額の税金の未納が発覚し、1950年、ボクシング界に復帰することとなりました。
この時、ルイスは36歳になっていました。
ルイスの衰えは隠しきれず、復帰戦では判定負けを喫します。
1951年10月、後に世界ヘビー級王者となるロッキー・マルシアノと対戦し、8RKO負けを喫しました。
この試合は、ルイスがリング外にたたき出されるという壮絶なKO劇となりました。
この敗北により、ルイスは完全にボクシングから引退します。
ジョー・ルイス、戦績69戦66勝52KO3敗。
3敗のうち2敗は復帰後に喫したものであり、実質上の敗北はシュメリングとの第1戦のみと考えることもできます。
また、ルイスは世界戦25回連続防衛という驚異の記録を持っており、これは現在においても未だ破られていません。
25度目の防衛戦は1948年6月のウォルコット戦であるため、なんと75年以上も記録が破られていないことになります。
ボクシング界で最も権威のある『リング誌(The Ring)』が2017年に発表した「オールタイム・ヘビー級ランキング」では、ジョー・ルイスはモハメド・アリに次ぐ2位に選出されています。
【晩年】
引退するまでの間に多額のファイトマネーを獲得したルイスですが、そのほとんどが搾取され、ルイスの元には一部しか渡っていなかったとされています。
また、ルイス自身もさまざまな事業に手を出して失敗し、お金を失っていました。
困窮したルイスは1956年からプロレスラーとしてリングに上がりました。
しかし、心臓を悪くしたルイスは選手を続けられなくなり、その後はレフェリーとして活動しました。
そして、1981年4月、心筋梗塞により66歳でこの世を去りました。
ボクサー時代の功績を称えられたルイスは、アーリントン国立墓地に埋葬されています。
かつて国の威信を懸けて2度対戦したマックス・シュメリングは後に実業の世界で成功し、ルイスが困窮していると知って匿名で経済的にルイスを支援しました。
また、シュメリングはルイスが死去した際には葬儀代の一部を援助しています。
ルイスのみならず、シュメリングもまた強さと優しさを兼ね備えたグレートチャンピオンでした。
以上、抜群の強打でKOを量産し、黒人として2人目となる世界ヘビー級王者となったボクサー、ジョー・ルイスの生涯を解説しました。
YouTubeにも動画を投稿したのでぜひご覧ください🙇
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【参考文献】 『地上最強の男 世界ヘビー級チャンピオン列伝』百田尚樹,新潮社,2020年