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橋本治「孤立の系譜」

「当時の私は、絵描きになりたかった。当時の私が最も強い関心を持っていたのは歌舞伎だった。『日本美術の心とかたち』という本を読み終えた今にして思えば、私の前にあった歌舞伎は、演劇ではなかった。最後、登場人物が必ず『絵面の見得』になって静止して終わる歌舞伎は、いたってドラマチックな造形芸術の一つだった。能の最後は、登場人物が去って行く。人形浄瑠璃の段切れは、それまで登場人物を演じていた人形達が、突然鎮魂の曲に乗って『人』であることをやめ、形式となって宙を舞う。能も人形浄瑠璃もドラマを語るが、歌舞伎はドラマを演じて、その最後ドラマであることを放棄した『絵』になって終わる。『絵』だからこそ歌舞伎が好きだったのだなと、この歌舞伎のことにほとんど触れていない『日本美術の心とかたち』という本を読んで思った。私にとって、文章を読むことよりも重要なのは、造形作品の中に遺された人間のあり方を読むことだったらしい。それしか、生きていく上で役に立つものがなかった─『どうやら自分はそういう考え方をしていたのだな』ということが、『日本美術の心とかたち』という本を読むことによって理解された。なぜかと言えば、この本が、日本という社会の中でものを考えてしまった人間達の孤立の跡を述べる本だからだ。
日本の社会の中で、思索とは、『ものを考えてしまった』という運命論的な響き方をするものである。日本人にとって思索というものがそういうあり方をするものであるならば、その思索の跡は、必ず『もの言わぬ物』の中に色濃く残る。私はそのように思う。それを引き受けてしまえば『孤立』である。しかし私は『孤立』を恐れない。日本で『孤立』と『独創』はイコールだからである。しかし私は、『洗練』に対しては恐れを感じる。この本を読んでからそう思ったのではない。この本を読む以前からそれだけは感じていた。日本での洗練は、『孤立の中の孤立』のようなもので、私にとってそれは『死』に等しいようなものだからだ。こんな私にとっての謎というのは、なぜこんな私のところに『《日本美術の心とかたち》の解説を書け』などという依頼が来たのかということだが、今の私にとってこの答は一つしかない。きっと、加藤周一氏も私と同じように孤立の中にいる人なのだろう─ただこれだけである。」

橋本治「孤立の系譜」
(加藤周一『日本美術の心とかたち』解説)


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