橋本治『ひらがな日本美術史4』は謎の人物・俵屋宗達から始まる。
出自が不明なのは、「絵屋」に属する民間人だったから。では没年が不詳なのはなぜなんだろう?
俵屋宗達の絵の実力は確固として評価されたにも関わらず、忘れられ、一時は歴史から抹殺されてしまったのはなぜか。それはその時代の“見る側”の問題でもある。
宗達・宗雪のあとに登場した“琳派”の光琳が絶大なる人気を誇り、宗達は忘れられていく。宗達の《風神雷神図屏風》は光琳も模写をしているが、当時の“見る側”の人間は、宗達の《風神雷神図屏風》と光琳のそれとを比べて、光琳のほうを優れていると評価していた。光琳の社会的位置が高かったからだ。
宗達は本阿弥光悦の書に下絵を描いた仕事も残っているが、その絵すら「光悦が描いたもの」と誤解され、宗達は完全に抹消された存在になる。その宗達が復活するのは大正時代になってからである。
私は俵屋宗達を書いた章が橋本治のことを書いているような気がして仕方がなかった。橋本治本人が聞いたら否定されそうだけど。
今でこそ、俵屋宗達は日本美術界最高の画家と評されている(美術ライターの橋本麻里さんによれば、この考え方も“イズム”の一つである)けれど、大正時代までの250年ばかり忘れられた存在になっていた。
橋本治という作家も、日本文壇界の中では異端の存在でありつづけた。そもそものデビューからして“中間小説”誌という位置付けの曖昧な場所であり、エンタメ小説と勘違いされてまともに受け止められず、だからこそ日本の大多数の“真面目な”人からは読まれもしないし当然ながら評価もされない。その後あまりにも多岐にわたる仕事を遺したがゆえにどう位置付けたらいいのか「よくわからない」と思われたまま亡くなったのが橋本治だ。
宗達のその“技”が埋もれていたのが受け手の問題なのだとすれば、再評価して歴史にきちんと位置付けられるのも受け手次第だ。
本阿弥光悦の書に宗達が下絵を描いた作品を扱う章「勝つもの負けるもの」で、橋本治は自らを「人に挿絵を依頼する“文章書き”」として書いている。しかし、橋本治はもともとイラストレイターとして挿絵の仕事もしていたのだから、文章書きとしてだけでこの文章を書いていたとは思えない。