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分りうることを知った人間は、それ故にこそ分ろうとしない愚かしさを憎む

「“焦げた手拭いを頬かむりした中年の女が二人、ぼんやりと路傍に腰を下ろしていた。風が吹いて、しょんぼりした二人に、白い砂塵を吐きかけた。そのとき、女の一人がふと蒼空を仰いで『ねえ....また、きっといいこともあるよ。....』と、呟いたのが聞えた”

40年経って、彼女達に“またいいこと”はあったのだろうか?それがなければ、日本はまだ愚かな国のままだ。
“日本は亡国として存在す。われもまたほとんど虚脱せる魂を抱きたるまま年を送らんとす。いまだすべてを信ぜず”─そう終えられるこの40年前の記録は、“いまだ”の一語で40年後の現在に直結しているように思われる。40年の時間を超えて、暗い空から真っ白な雪が吹き込んで来るような気がする。愛せると思えたものが、実は同時に愚かでしかないものであるということが分ってしまった─そのことが今も続いているのなら
分りうるということを知ってしまった人間は、それ故にこそ分ろうとしない愚かしさを憎むものだ。」

「『戦中派不戦日記』の読み取り方は色々あるだろう、しかし私にとってそれは一つである。山田誠也青年はただただ、愚かしさだけを呪っている、と。愛しうるものが、何故こんなにも愚かでなければならないのか、と。
“敗戦して、自由の時代が来た、と狂喜しているいわゆる文化人たちは、彼らが何と理屈をこねようと、本人は『死なずにすんだ』という極めて単純な歓喜に過ぎない(12月24日の項)”─私たちは40年間、その“単純な歓喜”の延長線上に生きているのである。」

「『いつかいいこともあるさ』という楽天ではなく、『今度こそ“いいこと”を自分のその手でつかみとるのだ』というそのことを、人は40年経って獲得したのだろうか?40年前の率直さを埋れさせて、時がその上に降り積っているだけなのではないだろうか....。」

橋本治
(山田風太郎『戦中派不戦日記』解説)

橋本治はかつて、源氏物語を現代語訳したあとに書かれたエッセイで、こんなことを書いていました。

「紫式部が絶対に選ぶことが出来なかった物語の『その先』は、その時代が一千年経って、もういくらでもあるのです。そのように、『前提』は変わってしまっているのです。
だから、『その前提をどう活かしたらいいのだろう?』ということを考えなければ、この一千年の時の流れというものは、無意味になってしまうということですね。」

橋本治『源氏供養』

千年前に『源氏物語』を書いた紫式部と、80年前に『戦中派不戦日記』を書いた山田風太郎が生きた時間から、現在はまっすぐに繋がっています。現代に生きる人間は、その延長線上に生きている。そうであるならば、過去の人間の生きた時間やその後に経過した時間の持つ意味は、現代においても重要であるはずです。
一人の人間が生きることのできる時間は、限られています。平均寿命が延びたとしても、やはり限界はあります。そのなかでできること、学べることを最大限に活かすために過去に書かれたものを読む意味があるのです。同じことを繰り返すだけではなく、少しでも前に進むために。
「人生は一度きり」を、ただ自分のやりたいことをやるためだけの言い訳にせず、自分の人生の時間を無駄にしないために使う。一人の人間が一生をかけてできたこと、またはできなかったことを知り、自分の人生に活かすことが人生の時間を無駄にしないことに繋がって、さらには次の誰かの人生の足掛かりになる。そうなったらいいと信じています。

※上に引用した文章は『戦中派不戦日記』の解説部分です。電子書籍版では解説が読めないことがありますのでご注意ください


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