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愛する方法

「私が『「レズビアン」である、ということ』という本を読んで、『自分がレスビアンであってもいいな』と思ったのは、この本の著者が『性的であることはそのまま社会的であることだ、だってそうじゃなかったら私(達)は生きられない』を当然の前提にしていたからだ。男にとってみればそれはとんでもない飛躍なのだけれども、これは当然のことでもあるので、こういうことを自然の摂理として持っている女の前提をいただけちゃうのは、とっても得だと思った。
ついでながら、この本には日本のフェミニズムのレスビアン差別という記述もあって、なんかとっても意外な気がして、しかし腑に落ちた。他人のゲイには寛容な男が、実は自分のゲイの可能性をとってもこわがっているのとおんなじ構図が、『なんだちゃんと女の方にもあるのか』と思った。『そうじゃないと男女平等は成り立たないと思ってたんだけど、なんだ、ちゃんと成り立つんだ』とか。
私は、ゲイというのが“男を愛したがる男”や“男に愛されたがる男”だというふうには思ってない。ゲイとは“男を愛する方法”だとしか思ってない。だから当然、レスビアンも“女を愛する方法”だとしか思ってない。世の中には二種類の違う人間がいるんだから、方法が二種類あっていい。」

「私(あなた)だってレスビアンかもしれない」橋本治
『広告批評の橋本治』pp.462-463
(「広告批評」1992年7・8月合併号)


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