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SAD診断からの道のり②

①の続き

自身と環境の変化

精神科に通い始めるようになってから、カウンセリングを受けるようになってから、劇的にとは言えませんが、少しずつ私と私を取り巻く環境は変わっていきました。

人が怖い。外が怖い。
回避行動を重ね、長年引きこもり生活をしていたので、声の出し方も話し方も視線の送り方も、なんだかよく分からなくなっている。注がれる視線に敵意や悪意を感じる。外見へのコンプレックスが肥大化していく。毎分毎秒、私は私の姿を疑問視する。「変ではないか?」

それでも毎月一度は通院しなくてはならない。週に一回、最大で月5回のカウンセリングを受けなくてはならない。
私の正直な気持ちを言えば、行きたくない日の方が多かった。しかし元の生活に戻るのは、本当に心底嫌だった。今ここで踏ん張らなければ、自分と向き合わなければ「終わる」。

積極的に自ら通いたいとは思えなかったし、逃げることもできたが、逃亡のためには大嫌いな「電話連絡」をしなくては。もちろん、それを回避することもできる。できるのだが、実行すれば今度は相手から電話がかかってくる。
あの音は嫌だ。着信音が耳に入ってくる度に、心臓が跳ね上がり抉り取られるような感覚を味わう。そして、「もう勘弁してください〜お代官さま〜」という気分になるのだ。

葛藤の連続の末の、八方塞がり。もう、行くしかなかった。なりふり構ってられなかった。藁にもすがる思いで、病院の門を叩いたのだから。
それに、休んだら主治医や担当の心理士(カウンセリングは毎回、次の日程を決めて帰るため)に迷惑をかけてしまう。それが嫌だった。
私の通院する時の気持ちは、おおよそいつもこんな感じだった。そういう気持ちが辛うじて「すべてを放棄したい」私をギリギリのところで支えていてくれたのかもしれない。

通院に成功しても、得られるものは達成感などとは程遠く、いつだってその帰り道で繰り返されるのは「自己反省会」と「これからに対する不安」だった。

様々な考えが頭の中で堂々巡りする。今日も心理士さんの顔色を伺って、伝えたいことの1/10も言えなかった、こんなことをしてよくなるのだろうか、私にはあまり年齢的に余裕をぶっこいている暇などないのに、私の中に深く根付いてしまった人と社会に対する恐怖を解いていくのに、どれくらいの時間を要するのだろうか…

カウンセリングのおもな内容は、知っている方もいるかと思いますが、「認知行動療法」や「曝露療法(エクスポージャー)」というものです。
あとは、座りながら太腿に手を置き、自己暗示(「私は落ち着いている…」「手足が温かい…」など)をかけつつ呼吸を整えたり精神を落ち着かせる「自律訓練法」という訓練も行いました。

前述の療法に関しては、説明するのが少し難しいので、私が経験した内容をざっくり説明することに留めておきます。

「どのような場面で恐怖を感じるのか」「複数ある恐怖の中で何がとくに恐ろしいのか」…それは人により異なりますが、その中でも「恐怖レベル」の低い比較的実現が容易な事柄から何度もチャレンジ→クリアしていく、つまり怖いと思っている状況や場所にできる範囲で身を置き(曝し)、行動し、徐々に慣れていく…薬を味方につけながら恐怖対象に挑む。

私の場合は、散歩の継続→すれ違う人に「恐る恐る」挨拶してみる(返ってこなかった時は凹んだ)→カウンセリングに通う(往来でも人との接触は避けられないので、これもだいぶ訓練になる)→それを記録して報告することを、最初のうちは繰り返していました。

私にはこの療法が合っていたのか、数ヶ月後には心理士さんの顔を以前よりは見て話せるようになったり、次第に買い物や食事に出かけることが緊張はしますが、抵抗なくできるようになったりしました。

今でも外食や買い物をする度に思います。外出に抵抗のない人の世界は、人目をあまり気にしないでいられる人の世界は、こんなにも気持ちが楽なのか、食を楽しみ、会話を楽しみ、娯楽を娯楽として楽しみ、景色を眺める喜びを噛みしめることができる。
障害を憎みに憎む日々の中で、障害を持たなければ生涯、決して感じることの、至ることのできなかった境地があるのではないかと思いました(しかし、障害・病気を美化しているわけではありません、私は人生を病に根こそぎ持っていかれてしまったと思っています、なので自分の障害に今も憎しみを抱いています)。

地域活動支援センター

その後、病院の近くにある地域活動支援センターに通い始めました。利用者はそれぞれカラオケをしたりPCをつついたり、本を読んだり談笑したり、時々お菓子を作ったり、出入りも自由で個室の休憩所もあり、ルールさえ守ればあとはマイペースに活動できるので、私にとってはなかなかに居心地の良い場所でした。

障害者手帳の申請

地活センターの職員さんに勧められて、障害者手帳(手帳には様々な種類があり、精神障害の場合は「精神障害者保健福祉手帳」)を申請してみないかと提案されました。私はその頃、就労継続支援B型事業所(いわゆる作業所、A型とB型がある)に通所することを視野に入れていました。

手帳を申請するには医師の診断書が必要です。後日、主治医に相談すると二つ返事で引き受けてくれたので、必要な書類を集め申請手続きを行いました。一ヶ月半から二ヶ月が経過して「障害等級2級」の結果がかえってきました。この結果には自分でも驚き、少しショックを受けました。

精神障害の場合は、1~3級の等級(あくまでも目安ではありますが、数字が少ないほど重度と判定される)があり、例えば食事や風呂(の準備)や掃除、外出の際の身支度が一人で出来るか、それが困難であるか。それが一種の判断材料になっているようで、困難であれば「日常生活に支障がある」とみなされる、というような感じです(私見ですが)。

確かに、日常生活を送ることは私にとってはかなり困難なことでした。
毎日がこれからが不安で、今までの人生何も成し遂げられなかった後悔で思うように眠れない。
燃え尽きたように何もできなくなり布団に横たわり泣いてばかりの日々、時には私は最初から存在しなければ良かった、死ねば楽になれるだろうか、死んで自分をあらゆる苦痛から解放してやりたい、という時期もあり、それらは明らかに心身ともに不安定な状態を示しており、安定からはほど遠かった。

おかしいな、私は対人恐怖から少しでも脱却したい、脱却できなくても将来ずっと薬を飲むことになっても、病気と折り合いをつけて「穏やかに」過ごせれば良くて、そのために生きてきたはずで、やっとそれらが手に入りつつあると思ってたのに。
今の私はその「穏やかな生活」からかけ離れた位置にいる、その事実が「障害等級2級」という結果として反映されたのだろうか。

◆私の主な症状(困りごと)

・眠れない・動けない日が多い
・シャワーを浴びるどころか、洗顔も億劫…というよりは「水に濡れる」状態さえ怖く、たまに洗顔・洗髪・入浴をすると涙が出てくる
・些細な物音・生活音(人の話す声・テレビの音・食器を片付ける音など)がうるさく感じられる
・定期的に自分の存在を消したくなる

中でもかなり困った(今でも困っている)ものといえば入浴でした。
入浴は「シャワーで簡単に済ませよう!」と思っても、それでもかなりエネルギーを消耗する作業で、とにかく工程が多いことが辛く、しかも辛いと思いながら完璧にこなせなければ納得がいかないという、「自分で自分に課したルール」のようなものに縛られ、更なる苦しみに置かれ見動きが取れないでいたこと、身綺麗にできない→落ち込む→外出ができない→落ち込む→身綺麗にできない…という負のスパイラルに陥っていたこと。

私は主治医とのやり取りで、それらを伝えたことがありました。主治医は私のその言葉を受け「抑うつ状態に置かれている」と、診断書にその旨を書いたかもしれません(※)。

(※)後日(この記事を書いている最中)、主治医に思い切って「私は抑うつ状態にあるのでしょうか」と訊ねてみました。結果は以下のツイート通りで、医師の判断では、私は現状かなりの抑うつ状態に置かれているようです…まあ、現状は生きるので精一杯だし…

なお、手帳を持つ(提示する)ことで、さまざまなメリットが生まれます。

・障害者雇用枠での就職が可能になる(企業側に障害を持っていることを予め知ってもらえるので、相談の上困りごとに対する配慮をある程度してもらえる)
・バスなどの公共交通機関・映画館・アミューズメントパーク(有名どころだとUSJ)の割引

その他諸々あります。2級・1級では受けられる恩恵の範囲が広がるようではありますが、地域により受けられる恩恵には正直雲泥の差があるように思います。
私は田舎で実家暮らしをしており、気力もあまりないために滅多に映画館に行くこともなく、精々受けられる恩恵と言えばバス料金の割引くらいです。私自身は(ちっぽけなプライドかもしれませんが)手帳を運転手に見せることに抵抗があり、ずっと通常料金を支払っています。

それから、手帳を申請するには一定の条件を満たしている必要と、ルールが定められているので、それに従う必要があります。

・初診日から6ヶ月経過通院している
・医師の診断書が必要(なので診断書代がかかる、私の場合は¥5000程度でした)
・2年に1度、医師の診断書・顔写真などと共に提出し、更新する必要がある(2年の有効期限がある、期限の3か月前から申請可)(※)

(※)手帳は障害年金を受給している場合、受給者に交付される年金証書で更新が可能です。(年金の等級と同じ等級の手帳が手に入ります。この場合、主治医の診断書は必要ないようです。)
これらは主治医やPSW(精神保健福祉士)、役所の担当者らとのやり取り等で得た情報なので、間違いはないかと思われますが、お困りの際は個人で調べられることをおすすめいたします。

最後に

こう言っては何ですが、私はかなり運のいい方だと思う部分もあります。
時々襲ってくるパニック発作が未だに苦しく、SSRIでのシャンビリ(頭の中や耳の中で、シャンシャンビリビリと音がなる感覚)やイライラに苛まれた時期もありましたが、薬の処方に関してかなり慎重で話をよく聞いてくれる主治医に恵まれ、カウンセリングをある程度外出できるようになるまで根気よくこなすことができ(半年くらい)、その結果地活センターにも行けて、手帳の申請も無事通り、作業所にも通えるようになった。あの引きこもりの日々の終わりから経過した年数は約1年半〜2年ちょっと、ならば御の字かもしれません。

作業所に通所していた頃に関しては長くなるので端折りますが、地道にコツコツとやっていくものが多く、日々の努力の割には作業所という性質上、工賃がかなり安い、家から遠い、朝起きれず夜眠れず体調がまったく整えられない、という理由で半年持ちませんでした。たぶん2・3・4番目がやめた理由のほとんどを占めていると思います。

こうなって来ると、①の冒頭でも書いた通り、「私はいったいどうやって食っていけばいいんだろう」という大きな壁にぶち当たります。
ただでさえデフレが続いていく世の中、消費税も上がって田舎住みでは職もなく、先に待っているのは…と毎日考えますが、この記事の主旨からそれてしまうので、また別の機会にします。

以上が、社交不安障害と診断される前から後の私の経験談、道のりでした(タイトルを「診断からの道のり」にしたため、ちょっとタイトル詐欺っぽくなってしまったけど…)。かなり長くなりましたが、最後にこの過去のツイートで終わろうと思います。

"帰宅途中の子どもや柴犬と散歩中の女の子とすれ違う際に「こんにちは〜」と声が聞こえてきて、「え、わ、私に挨拶してくれたんだよね?」と内心びびりまくりで慌てて蚊の鳴くような声で挨拶を返したのだけど、たぶんこの挙動不審ぶりはこれからも健在でしょう"

2019.10.31

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