SAD診断からの道のり①
社交不安障害(Social Anxiety Disorder, SAD)と診断され、10月末(10/30)で三年が経とうとしています。
学生時代からの対人恐怖をこじらせた結果、引きこもり生活に突入してしまい、叶えたかった夢を手放さざるを得なくなった一方で、この先どう生きていけば良いのか何も分からない目の前が真っ暗な現状、そしてそんな中でも残酷に時は刻一刻と流れていくという「焦り」だけは片時も離れず、私の精神は常に言い知れぬ不安の中にありました。
そんな状況から精神科へ通院を開始して三年。猛スピードで駆け抜けた時もあればひたすら死んだように布団の住人と化した時期もあり、そして初めて経験したことも数多く、「本当に色々あったな」と思うと同時に、月日は猛烈な速さで過ぎ去っていったように感じられます。
なお、何年も前になる10代後半からの引きこもり時代も併せて記述するので、記憶が曖昧な部分もあり、その時の状況・心情などはっきりしない所があります。また、この記事は長くなりますので、一応目次をつけて、なるべく読みやすくしてあります。
学生時代
昔から文章を書くこと、語学が好きだったので、県内の外語学校の英語通訳・翻訳コースで三年間、勉強をするつもりでした。しかし、高校をやっとの思いで卒業した私の不安や恐怖はもはや末期状態に差し掛かっておりまして、どうにも耐えきれず間も無く休学の末、退学してしまいました。
私は自分のこの状態、とくに人前で現れる身体的症状(動悸・震えなど)に違和感というか、「これはもしかして病的なものではないのか?」と薄っすらと考えていて、母に「人が怖くてたまらない、外に出られないし学校にも行けない。だから一度病院に行って相談してみたい」と訴えたことがありました。
それが19歳になる年の初夏の頃で、私の記憶が確かであればまだ休学はしていませんでした。父がまだ存命だった頃で、よく母と共に通院に付き添っていたので、一度同じ精神科にかかることになりました。自分でもこの経歴はちょっとややこしいと感じるのですが、実はこの時が、私にとっての実質的な「初診」であります。
母と共に待合室で待機している間に、SADに関する説明が記載された小冊子をもらい、「SADチェックシート」なるものに答えていき、医師に見せました。
「社会不安の可能性はありますが、学校にまだ通われているのを見る限りでは、著しい生活の破綻もなく、日常生活に支障を来たすほど重度ではないでしょう」というような判断を下され、「もし学校を辞めることになるほど状態が悪化した場合に、またいらしてください」と言われました。
私は結局この後、学校を退学してしまいました。高校時代と似たような身体症状に苦しめられ、授業中は言葉がまったく出てこない日もありました。苦痛でしかなかった。休学をはさんでも根本的な解決には至らない。
「もう辞めたい」
次第にそんな気持ちが大きくなっていきました。
学校を辞めた後、待っていたのは家族の死でした(この件については来年記事を投下するつもりです)。
喪失に憂鬱と無気力を感じながらも、退学したのだからバイトでもしなければ…とバイト先に震えながら面接の連絡を入れたり、ハローワークに通ったりした日々もありましたが、職員に声をかけられないので、そのまますごすごと家路についてばかりでした。
私は以前、精神科で医師に告げられた言葉を思い出しました。
「もし学校を辞めることになるほど状態が悪化した場合に、またいらしてください」
そこで、もう一度、母に精神科の受診に関して相談してみました。が、母も色々と切羽詰まっていたのでしょう、娘の言葉に真摯に向き合うほどの気力がなかったのかもしれません。
私も、そんな母の心情を察してか、自分の恐怖や不安を説明する気力が底をついていたからか、「どうせ理解されない」と半ば諦めていたからか、何も言わなくなってしまいました。
こうして、これから長い間、無為な日々を過ごしていくことになります。
引きこもり時代
今から三年かそれより前となると、ますます状態は悪化し、もう外出すら困難だったので、家から一歩も出ずに一日を終えることも珍しくなく、食事とトイレと風呂以外はほとんど部屋にこもって趣味に没頭するという生活を送っていました。
「家に居れば人目を避けることも出来るし、働かずとも身の安全も生活も保障される」という安心感はまるで大きな殻に守られているようで、私は当初、そんな状況に甘んじ依存していました。
ところが、次第にすべての事柄が自分やごく身近な存在である親との間で静かに完結していることや、外の世界を肌身で知ることも感じることもなく漫然と生き続けている自分に違和感や激しい焦りを覚えるようになりました。
長年、私を守ってくれていたはずの大きな家という名の殻は、いつの間にか自身を捕らえる牢獄と化していた、居座れば居座るほどに、足枷は増え鉄格子は堅固さと重みを増していった。
外に出られなくしているのは紛れもない私自身で、私はまやかしの安寧に身を委ね、それ以外何も見えていなかったし、見ようとしていなかった。すべて束の間の幻想だったのに。
「私は確かにこの世に存在しているのだろう、今ここにある自分の肉体も精神も己の頭で認識できるのだから。けれど私は「他者と関われない自分」から抜け出すことすら叶わず、外の世界を知らず親以外の誰からも認識してもらえていない、私はいったいこの世の"どこ"に存在していると言えるだろうか」
「生きながらにして死んでいる」
自分のことは、そんな人間に思えました。
引きこもりからの脱却をはかる
ある冬の日、決死の覚悟で外に出てみました。
「ただ単に散歩に出かけるだけだし、怖くなったらすぐに家に帰ればいい」と言い聞かせて、自分を精一杯鼓舞し玄関のドアに手をかけましたが、結果は散々でした。
近所で遊ぶ子供の声や、すれ違う人々の視線に驚くほど翻弄され、この時「自分は自分で思っている以上に人(の視線)に恐怖を抱いている」と身を持って感じたのです。全身を通して、夢から醒めたような感覚を味わいました。
今のままの生活が続けば本当にダメになってしまうかもにしれない。
ようやく自らが置かれた立場に危機感を覚え、母親に強く病院に行きたいと訴え倒し、恐怖と真正面から向き合う決意をします。
通院開始
2016.10.30、この日から継続的な通院が始まります。症状と、この病院を受診した過去があることなどを30分ほどかけて説明して、改めて社交不安障害の診断がくだりました。
最初の数週間は、「デプロメール」というSSRI(おもにうつや不安障害に使われる抗うつ薬)を用いた投薬治療が行われました。
薬の効果は数週間服用を続けても「可もなく不可もなく」といったところでしたが、出来るかぎり外の空気に触れておこうと始めた夜の徘徊もとい散歩のおかげか、人に対する恐怖も若干ではありますが和らぎつつあり、今まで出来なかったことにも挑戦したいと思える余裕が生まれ、この頃は精神的にもわりかし安定していたように思います。
しかし、ここである症状に悩まされるようになります。
パニック発作初体験
二、三度目の通院時とヘアカットのため美容院に行く最中、激しい動悸と全身の震え、喉の詰まったような感覚、息苦しさで居ても立っても居られなくなり、不測の事態に訳も分からず、車内で十五分〜二十分ほど、ひいひい息を切らせながら泣きじゃくってしまったのです。
この時の感覚は、ああ私はここで死ぬんだ、怖い、形容しがたい恐怖だ、ただただ「恐怖」という一言でしか表せませんでした。
黙っているわけにもいかず主治医に話したところ、「ソラナックス」という抗不安薬が処方されることに。これが飲み始めは恐ろしいほどによく効いて、強烈な不安を立ちどころに撃退してくれるので(不安撃退薬と命名していた)、こんな魔法みたいな薬が存在したんだな、これさえ懐に忍ばせておけば向かうところ敵なし、無敵モードや〜という心境でした。
まあ、薬一粒でもたらされる平穏を有り難がる一方で、こんな小さな錠剤一つで劇的に変わってしまう精神とは、脳とはいったい何ぞやと思ったりもします…
(薬を服用し続けていると、徐々に耐性がつくので、今では一日3回×2錠に増えました。依存・離脱症状が恐ろしく、まだまだ減薬まではほど遠いのが現状で、正直辛いです)。
この死すら意識するような息苦しさはいったい何なのか、名前はついているのか、似たような経験をした人はいるのか。気になって自分で調べてみました。
どうやらパニック発作というものらしく、この発作が繰り返し起こる「パニック障害」という疾患があるのですが、社交不安障害にも症状の一つとしてこのパニック発作があるらしく、私の場合は車での移動中ずっと「他人の視線」「他人からどう思われるか」を意識し不安漬けになった結果、発作に繋がったといえるので、医師との相談の結果も踏まえて、おそらくそれに該当するだろうと結論付きました。
カウンセリング開始
それから間も無く、カウンセリングを受けてみないかと主治医に提案されました。
私の場合は、精神科に常駐の臨床心理士がおり、保険適用+自立支援医療制度により、費用は1回1時間で1000円ちょっとくらいで済みました。
しかし、はじめは一週間に一度は通わなければならなかったので、合計で月4〜5000円にはなります。それを続けている内に、さすがに財布に加えられる一撃がどんどん大きくなっていくのを感じました。
最初に挑んだのが「ロールシャッハ・テスト」という、インクの染みのような左右対称の図形が何に見えるか、何を連想するかを問う心理テストでした。
私はその日、初っ端から心理士Aさんの目の前で「他人からどう思われるか」を気にする自分をモロにさらけ出してしまいます。
「こう答えたら変なやつだな〜と思われるのではないか」という考えが頭の中から終始離れず、長い間黙り込んでしまったり(時間がかかる方がどう考えてもAさんをその間、時間的に拘束してしまうのだから、そちらの方が負担になりますし迷惑です、それは分かっていたのですが…)、プリントに自分が考えた答えを記入するテストもあったのですが、視線が気になってペンが進まず次回までの宿題になってしまったり。
自分でも呆れ返りますが、テストだけで三時間ほどかかってしまいました。(結果に関しては、受け答えや文章に違和感や異常はなく、問題なしとされましたが、「やはり他人の評価を気にしすぎる傾向にありますね」と後日Aさんから告げられました。撃沈。)
さすがにこの時は自己嫌悪感の海にしばらく浸かって動けませんでしたが、嬉しい出来事もありました。
主治医の言葉
ある時、どうにも精神的に参って死しか見えない時期があり、主治医に「俺の話を聞け〜」状態で死にたい気持ちを書き殴ったメモを渡しました。
「文章書くの上手ですね~」
主治医の放った言葉(「主治医から投げ込まれた言葉」という表現がより相応しいかもしれない)は、私にとって意外なものでした。自己肯定感が地の底を突き抜けて奈落にいた私の全身を引っ張り上げてくれたような、そんな気分になりました。
先生は私の死にたい気持ちについては何も言わず、メモを見ながらゆっくりと、うん、うん、と頷いていました。
私はその様子を見て思いました。
私のぐちゃぐちゃな精神を表したかのような汚い字を、文章を真剣に読んでくれる、目を通してくれる。どんな言葉よりも欲しかったのはこういう一時だったのかもしれないと、誰かに胸の内を知ってもらうことが、その時の自分にとって一番必要なことだったのだろう。
この時、先生と接することによって、自分の気持ちを新たに知ることができたのです。今でもその時のことが真新しく記憶に残っています。
私はこの経験を通して、人は必ずしも「助言」を必要としているわけではないということ、ただ側にいて(あるいは電話やメールで、SNSで)を話を聴いていてほしい。鬱屈した気持ちを抱えている。それを知ってほしい。そんな人もいるしそんな時もあるのではないかと思い至ることができるようになった気がしています。
2019.10.24