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「安心」と「不安」を考える


不安より安心の方がいいに決まってる。誰もがそう願ってる。

「安心」とか「不安」ってなんだろう? ちょっと考えてみる。


考えるきっかけの話

先日の友人との会話。疫病の話題から、人間ドッグの話になった。

「人間ドッグで肺に影がある・・・」再検査をして結果待ちの間、落ち込んでいたご主人の話を聞く。人間ドッグのひと月ほど前に、肺の病気で入院されていたはずのご主人。その時はなんの所見も出てないのに、ひと月足らずで影が出来た?🤔(再検査の結果、異常なかった模様)

そこから人間ドッグや健診の話になった。

私は人間ドッグに行ったこともないし、多分これからも行かないというと、友人たちは驚いて「早く見つけて早く治療した方がいいのよ」と言う。

それでも🙄うーん、どうかなぁ?必要ないと思うな〜などと言って、健診に行くと言わない私に友人の一人が業を煮やして「じゃあ、もし今後何かで検査して、コレステロールの数値が高くなってたらどうするの?」と聞いてきた。ちょっと考えたふりをしながら、私は笑って「コレステロール高めの私で生きて行く😆」と答えたら┐(´-`)┌こんな顔されちゃった💦


安心の仕方の差

私は以前に「罹ってるかどうかわからない病気の心配はしない」と決めた。

30代の初めに、子宮筋腫の切除手術をした。何か大きなものが子宮にあるけれど細胞検査をしないと良性か悪性かわからないと言われ。検査の結果が出るまで、笑うでも泣くでも悲観するわけでも楽観するわけでもない、無機質な一ヶ月を過ごした。今思っても不思議なひと月だった。感情がどこか自分の中から抜け落ちた感じ。何かを見ても笑えない、泣けない、味の付いてないお味噌汁を飲んでいるような、そんな日々。自分にとってそれは、理解できないもの、得体の知れないものへの「不安」だったんだと「良性でした」と言われた時に思った。


人はいろいろな「病気といわれる状態」になる。食べるもの・生活習慣・病原菌・・・遺伝もあるし、ストレスも病気の引き金になることがあるのは有名な話だし、どれか一つだけが原因ってわけじゃなくて、複雑にそれらが絡み合って起こるんだろうと思う。

長いこと生きていればいるほど、それらを完全に排除することは難しくなってくる。それならば、私はそれらと付き合おうと決めた。腰痛の私、五十肩の私、筋腫の私、全身疼痛の私。。。どれも、紛れもない私なのだ。

そして、そうなった原因もまた、私の中にあるはず。なので、丁寧にひとつひとつ、根っこを探っていく。食べ物・飲み物・生活態度・習慣・運動・睡眠・・・いろんな角度から情報を得つつ、自分なりに「これかな?あれかな?」と人体実験をするのである。そうやって過ごすことに慣れてくると、自分の真ん中に大きな柱が立ったような感じになってきて、自分で自分をメンテナンスすることが楽しくてしょうがなくなった(笑)


コレステロール、血圧、中性脂肪・・・「いい薬あるで〜」って主人の職場の健診先の先生が常々おっしゃるそうだが、何が「いい」のか?誰にとって「いい」のか。薬でコントロールを始めたら、それはきっと一生続けないとダメかな?自分でメンテナンスしたい私にとっては、それは「いいこと」ではないんだよね。



みんな「自分流」でいいんだよね

確かに、だんだんと健康に不安の出てくる年齢になってきた。けれども、ずっと不安がってたって仕方ない。自分に出来る努力をしたら、あとは天命を信じてにっこり笑って生活をする方が、私には合ってる氣がしている。


友人たちは「なんともなかった」って「安心したい」からドッグや健診に行くんだね。「何かあった場合でも、早く見つかってよかった」って思いたい。言い替えると「ひどくなる前にわかってよかった」という「安心」が欲しいんだろうな。

でもそこらじゅうに「不安のタネ」がバラバラと撒かれている。万が一それもらって帰ってきたら、本末転倒じゃないか。あの無機質なひと月と向き合った私は思う。


不調を感じる前の「人間ドッグ」や「健康診断」の類には、私は多分これからも行かないだろう。不安のタネをもらって帰って悶々とするんなら、その時間、汗をかきかき、笑って畑仕事をする方がいいかなって・・・(*´艸`)

そうして朝に夕に、ちろちゃんずに感謝しながら美味しくご飯をいただいてゆっくり眠るのが、私にとっての「安心」なのだと思う。

おしまい




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