親から継承した(させられた)キリスト教を相対化する
その昔、遠藤周作の作品を何冊か読みました。
遠藤周作もクリスチャン作家(この方はカトリック)であると同時に、今でいう宗教2世だったからです。
しかし、遠藤周作の「だぶだぶの洋服を和服に仕立て直す」という言葉を読み、
(※洋服=西洋のキリスト教、和服=日本人である自分にフィットするもの)
「ああ、結局あれ(キリスト教)、私も着ないといけないのか」と絶望しました。結局のところ、私は根っこの気質からして、キリスト教が向いていなかったんだと思います。
(遠藤周作の作品自体は、今も好きです)
もっとも、当時はキリスト教を離れる選択肢があることも知らずに生きていました。キリスト教という服を着るしかないと思っていた。
でも洋服も着物も、着る自由もあれば、脱ぐ自由もある。
組織や教え、信仰に悩む2世には、道が三つあります。
一つ目は、遠藤周作のように、押し着せられた宗教を、自分に合うように仕立て直して着る道。
二つ目は、仕立て直すことをやめて脱いで、自分に合う服を自分で作っていく道。
そして無理に決めずに、やりすごしていく道もあります。いつかは着るのか脱ぐのか決まるかも知れないし、決めないままでも生きていけるのだと思います。本人さえ、苦しくないならば。
無理やり自分を"変形"させて合わせていく方法もありますが、苦しいと思います。
私自身は、気づいたら脱ぐ道を選んでいました。仕立て直そうとしたけれど、キリスト教という服は、気づいたらほつれ、脱げていました。
助けになったのは、キリスト教をあまり意識せずに読んだ本たちでした。
キリスト教との関連が強い本もあれば、そこまででもない本もあります。
ただ欧米の文学は、個人がキリスト教(もしくは強大な国家)とどう向き合うかという問いが、物語の底に流れていることが多いのです。
私は向こうの文学を通して初めて、キリスト教のことで悩んでいる"他者"に出会うことができました。
物語の登場人物が、最後に神を信じようが信じまいが、キリスト教社会で悩む人たちの姿を読んでいくことができたことで、孤独が癒やされるのを感じました。
そうした本たちとの出会いを少しずつ書いていければと思います。
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