トラウマ治療中、一番ショックだった気付き…
本当は色々やることがあるのですが、ふと吐き出したくなったので久々のnoteです。
1.「母は、自分でも訳がわからず暴力を振るっているんだ」と信じてた。
私がトラウマ治療を受けるまえは、母からの暴力暴言の程度が度を越しているという自覚がありました。でも私は母に、同情もしていました。
「母は自分で、自分の感情をコントロールできない可哀想な人なんだ。
母は自分で自分のやってることが分からないんだ。私を殴るときも、わけが分からなくなってやってるんだ」
私が治療に腰を据えて取り組んだのには勿論、フラッシュバックなどが酷すぎて生活が成り立たなかったからです。
そして、もう一つは母の姿を見ていたからでした。
暴力を振るうことは、もしかしたら意思では抑えられないのかもしれない…。
自分の力でどうにもならないなら、いつか子どもを授かった時のために治療をしなきゃ。ヒリヒリしやすい神経系を落ち着けなければ。
母みたいになるのが、とても怖かったのです。
「私は母みたいにならない」と踏ん張ることは、私の人生を支える背骨のようなものでした。
ただ最近は、そこを指標に生きる限界も感じています。自分が少しでも母と同じことをしているだけで(専業主婦だったりとか)気に病んでしまうので、なんか違う捉え方ができないかなと考えています。
…さて、本題に戻ります。
トラウマ治療中、そんな母への見方が変わった気づきがありました。
2.母、分かって殴ってたじゃん…
トラウマ治療期間中、ふと思い出したことがありました。
それは…私が高校生くらいのとき、両親が家の窓を二重ガラスに変えていました。
子どもたちの出す「声」がうるさいから。
近所に聞こえたら、まずいから。
そう言っていました。
その「声」は母が暴力を振るったときに、私たちが泣き叫ぶ声のことでした。
当時、私も母が近所中に響き渡る声で怒鳴り散らすのが恥ずかしくて仕方なかったので、「いいことだな」と思っていました。
(高校の先輩が近所に住んでいたし、我が家の脇を通って通学する同級生もいた)
…異常な環境で育つと、感覚が狂う典型のような話です。
でも、それから何年も経ち、実家とも母とも距離をとった私は初めて、
「ああ、やっぱり母は異常だったんだ」
と気づくことになりました。
何よりもショックだったのは、私に対して、
「暴力なんてふるってない」
「ちょっとしたことを根にもつなんて」
と泣き喚いていた母が、しれっと虐待の証拠になる子どもの泣き声を「隠蔽」していたことです。
ああ、母は分かってやっていたんだ…。
正直気づきたくなかったし、自分たちの親子関係には「救い」などないのだということがハッキリしました。
と同時に、両親がお金をかけてまで、虐待を隠蔽するなんて、おそらく近所かもしかしたら行政から何かあったのかもしれない…と気づいて、さらにびっくりしつつ、ショックを受けつつ…。
でも、母をあきらめることはできました。
ああ私、この人のこと根本的に無理だなって。
これ以上、私の人生や私の新しい家庭に害を与えないなら、地元で教会で勝手に幸せに生きてくれればと今は思っています。
ただね…近所でも問題になるような泣き声が響いている事実を突きつけられても、母が「自分がやってしまっている」と思わず、「子どもが泣くせいだ」と考えてしまったのはなんなんだろうなと。
母は元々、自分が抱える問題に向き合う力が弱くて宗教にすがったのだろうし、宗教にすがることで、ますます向き合ってくれなくなったのだろうと今は思っています。
そして不器用ながら、小さい子の親になった今は、
「虐待の隠蔽につかうお金があったら、子どもに使えよ…」
と思います…。つくづく残念だわ、うちの親…。
本当にさ…母は実家依存しながら子育てしてたわけよ。正直私も兄弟も、決して育てにくいタイプじゃなかったはずなのよ。よくまあそれで、あそこまで怒鳴れたものだなと今は呆れています。
親になっちゃいけない人にも「親にならない選択肢」がなかったあの時代も問題だったよなと考えることも正直あります…。
というわけで今日は、
「トラウマ治療、改めて思い出してショックなこともポロポロ出てくるけど、その分、自分の人生を大切にできるようになるよ」
というお話でした。
(そういうことにしておきます。)