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「オンライン授業」という言葉が指すもの 〜理論と実践〜
「遠隔授業」という言葉を使ったり、「オンライン授業」という言葉を使ったり、「授業のオンライン化」と言ってみたり、いろんな表現がありますが、ここでは「オンライン授業」という言葉で考えていきたいと思います。
今回は、オンライン授業を受ける人も提供する人も、
以前のオンライン授業とは異なっている、という話です。
たとえば、こんなニュースがあります。
コロナ禍になる前のオンライン授業で
端末のない人がオンライン授業を受けなければならない
という状況があったでしょうか。
早稲田大学総長のこんな発表もありました。
「誰一人取り残さない」ためにオンライン授業に切り替えたそうです。
本当に「誰一人取り残さない」ことができたのでしょうか
この発表からは、大学側も教員側もとにかく対応に追われた様子が読み取れます。つまり、オンライン授業のノウハウを持たない人が急遽オンライン授業を提供する立場になってしまったということです。
これらは、これまでのオンライン授業のあり方と根本的に異なります。
というのも、これまで行われてきた、通信教育、配信型授業、オンラインコースなどは、すべて対面と比較した上でそちらがいい!と思った人が受け、端末やネット環境も揃っている、あるいは揃えられる人が、その対象者であり提供者だったからです。
本人または周囲が好んで「オンライン授業」を選んでいたのが、コロナ禍以前からオンライン授業に関わる人々。
本人や周囲が選択の余地なしに「オンライン授業」になってしまったのが、コロナ禍のオンライン授業。
コロナ禍以前からオンライン授業に積極的に関わっていればこんなことにはならなかったんですけどね。。
ちなみに、私自身がはじめて受けたオンライン授業は、中学生のときに通っていた塾でした。塾自体は、対面授業でしたが、「この問題がわからない!」というピンポイントの質問をしたいときにテレビ通話と画面上のホワイトボードで説明してもらえるというものでした。
たしか、問題をFAXで送り、PCの前に座って、会話しながら解説してもらうものでした。FAXで送るというのが時代ですよね。笑 2000年代初頭のことです。
20年近く前からできていたことが、
できないままここまで来てしまったんですよね。
まあ、でも過去のことを責めてもしょうがないですから…。
最近、増えているオンラインセミナーやオンラインイベントはどちらかというとコロナ禍以前のものに近いと思います。
受けたいと思った人が自分で申し込んで参加するからです。そして、直前になって受けたくなくなれば、参加辞退も可能です。
一方、研修や学会など、もともと対面だったのにやむを得ずオンラインで実施されているものは、コロナ禍のオンライン授業に近いものがあります。
オンラインイベントに参加するというハードルが以前よりも下がり、
気軽に申し込めるようになったという点では少し違うのですが、
それでもやはり"やむを得ず"という要素が限りなく薄い分、少し違うのかなと思います。
ここで、活きていくるのが、春学期に行われた数多くの実践です。
オンラインセミナーでも実践についての発表が目立ちます。
理論に関する発表もあるのですが、やはり説得力が違います。
今言われている理論はコロナ禍以前のものですからね。
選択の余地なくオンラインの授業を受けることになった人を対象とした授業実践なしに、理論を語っても、「〜はずである」という域を抜けられないのが、説得力に違いが出る原因だと思います。
対面のそれとも違うし、
コロナ禍以前のそれとも違う。
結局、ニューノーマルという言葉に行き着きますね。
もちろん当てはめられる理論もたくさんありますが、実践なしにはやはり「〜はずである」なんですよね。
春学期の実践には成功も失敗もあったと思います。
もうすぐ8月も終わり!
秋学期開始が迫ってきました。
たくさんの実践を参考にしながら、これまで教員それぞれが自分の対面授業を作り上げてきたように、たくさんのコロナ禍のオンライン授業実践をもとに「自分のオンライン授業」を作り上げていくときではないでしょうか。
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