短編『何も気にならなくなる薬』その285
話し相手の重要性というものはなかなか難しい。
人というのは自分のことを話したがる代わりに自分のことを勝手に話されることを怖がる。
お化けや幽霊と一緒だ。
見えないものが最も怖い。
なんなら人間が一番こわがるのが陰口というやつだろう。
そして同じ会話ができるだけの相手となると、
それなりの条件が必要になる。
同じ悩みを抱えるとか、同じ秘密があるとか、
バーで一緒になって喋るならお互いの寂しさを紛らわせる相手。
そういった同等ないしは近しい存在が欲しいのだ。
しかし、近頃は人々にとっての話題こ共通項がなくなってしまった。
いや、なくなったというよりか、選択肢が多くなりすぎた。
一昔前は、野球やテレビが大まかな共通項であった。
今でも野球はその最たる例ではあるが、「スポーツ」という言葉一つを取りあげると連想するものはおそらく多岐にわたる。
そこで噛み合わなければ共通項になり得ない。
その点でいえば「野球=大谷」という構図ができている野球というジャンルは共通項として強い。
その法則で考えると趣味が読書というのは恐ろしく共通項を見つけづらい。
作品のジャンル、作者、そしてシリーズ物になれば何巻目がいいか等、お互いの共通項が合致する確率は天文学的な数字になってもおかしくない。
あくまで一例だが、本来共通項というのは見つからなくて当然で、必要なのはいかにお互いの共通項が何かを見つけ出すのが会話の糸口ではないだろうか。
「最近テレビ見てます?」
「いや、最近はユーチューブばかりみてて」
「私もですよ。あれ知ってます?アザラシ幼稚園」
「知ってます、あれ可愛いですよね、思わずスパチャしちゃいました」
こんなふうになるかはその場その場の空気感や年齢などで変わってくるだろうが、そこからスパチャの話にすることもできるだろうし、動物の話、さらにはアザラシを掘り下げることもできる。
仮にテレビを見ていたとして、懐かしのテレビの話や芸能人の話などに発展できるだろう。
しかし、そうなると人一人の知識量がどれだけあってもカバーできない。そもそもそれだけの話題提供力があれば会話に悩むこともない。
自然と知らないことに突き当たる。
そこで最近の人に言えることが「知らないから教えて欲しい」の一言だ。
もし、バーにいて知らない話題になったのなら、どこかのタイミングで席を外し、トイレで検索することもできる。
下地だけは用意して知らないことは知らないと聞ければそれだけで会話になる。
そもそも物事に関心がなければそうはならないだろうが……
SNSはとりわけその色が濃い。
自分の知っていること、興味のあることをプロフィールに書き込み、また検索やハッシュタグを使えば興味のあること、知りたいことだけを知ることができる。
逆に言えばより一層狭いところへ向かって行ってるのではないか。
なぜ雑多なバーで隣同士の会話が弾まないのか、
おそらくは新しい情報を得ることに疲れてしまったか、そもそもそのつもりがないのか。
ともかく、知的好奇心がなければ人間関係は広がらないのだ。