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短編『何も気にならなくなる薬』その316

起きた。いや、むしろ薬が切れたのだ。体の奥がじんわりと熱を帯び始めたことに気がつく。
いや、熱は前からあった。睡眠という行為だけが私の不機嫌の原因を取り除いてくれるのだ。
「目が覚めましたか」
医者の男が語りかける。
あぁ、この病院は彼しかいない。彼の顔は見飽きたはずだが、ずいぶんと眠りについていたらしい。何処か懐かしさすら覚える。
「これからあなたはあまりいい思いをしないかもしれません。これは眠りにつく薬です。おそらくこの薬が最後になるでしょう。よくよく考えて服用してください」
それから何人もの人が私の病室を訪ねてきた。
あれは誰だったか、ほとんどの人間が怒っているように見える。
言葉も支離滅裂で何を言っているのか分からない。
頭に熱を帯びてくる。
私はこれ以上、人の言葉を理解することができなかった。
同時に長い眠りが私の感情を言葉にする方法を忘れさせてしまったのだろう。
「あああああ」
誰も耳を傾けない。私が話せないことを分かっているのだ。
赤ら顔と怒号であろう大声が周囲に響いていることだけはわかる。
「ったらよかったのに」
赤ら顔の若い女が何かを発した。
そして、周囲の人たちはバツの悪い顔をして黙り込んでしまった。
あぁ、恐らくはひと思いに死んでしまったほうがよかったのにとでも言ったのだろう。
周囲の怒りはすぐに静まりこみ、次の言葉を探して逡巡しているようであった。
誰か一人が病室から逃げ出すとそれに続くように人が一人、また一人と病室を後にする。
一人の女性だけが私の腹部を覆うように倒れ込んではただ鼻を啜るばかりであった。
私は決心した。
しかし、それはしばらくは実行に移せそうになかった。
彼女が私の病室から出たら私はあの薬を飲もう。

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魚亭ペン太(そのうち公開)
美味しいご飯を食べます。