エマ・ボヴァリーが読んだ本
エマ・ボヴァリーは、なにを読んで毒されたんだろう。これが、『ボヴァリー夫人』を読んだあと鮮明に思い出せない。
これは「勘違い読者が主人公の小説」としては珍しいことだ。近代の読者は、セルバンテスやオースティンといった文豪の書く「勘違い読者が主人公の小説」をとおして、当時は流行だったけど結局定番の古典にならなかった騎士道小説やゴシック小説の存在を知るケースが多いと思われるからだ。
僕はドン・キホーテを狂わせた『アマディス・デ・ガウラ』や『ティラン・ロ・ブラン』、また『ノーサンガー・アビー』のキャサリンを熱狂させた『ユドルフォ城の怪奇』を読み、どれもちゃんとおもしろかった(キャサリンがつぎに読もうとしていた『イタリアの惨劇』はたまたま『ノーサンガー・アビー』より先に読んでいた)。
17世紀初頭スペインのおじさんも、その200年後の18世紀末のティーンの女の子も、さらに200年以上たった21世紀のおじさん(僕)も、こりゃ熱中するわと思った。
じゃあエマは?
ということになると、「なんかしらんけどくだらない小説に夢中になってたんだよな彼女」くらいな印象になってしまうのだった。
今年2月、知人がポッドキャストを聴いてるのを、横で聴く機会があった。ふたりの男性が翻訳小説について対談する番組だった。ふたりとも教養ある読書家で、僕が読んだことのない本をたくさん読んでいる。感心しながら聴いてるうちに、自分の読書量の貧弱さに引け目を感じるほどだ。
その回はべつに『ボヴァリー夫人』がテーマではなかったのだけど、ことのついでにエマの話題が出て、ふたりはこんなことを言っていた。
僕が、文学少年・文学青年出身の人たちにたいして懸隔を感じるのは、こういうところだ。僕とその人たちとのあいだにどうしても越えられない壁がある。作者といっしょになってエマのお気に入り本をバカにできるだけの自信が、僕にはない。
『ボヴァリー夫人』は、標的とするタイプの作者名・作品名を具体的に名指していない。ただし例外的に、ウォルター・スコットと、ベルナルダン・ド・サン=ピエールの『ポールとヴィルジニー』を読んでいたことは明記している。
あと、エマの心理を記述するさいに〈ラマルティーヌ的な迷宮〉という物言いが出てくる(ラマルティーヌを読んだとは書いてない)。エマの好みが基本的に、勇ましかったり情熱的・感傷的だったりするものだろうとは推測される。それから、当時流行ってて人気があっただろうということも。
『ポールとヴィルジニー』は僕好みの作品ではないけれど、それが18世紀末に書かれるべくして書かれたことはなんとなくわかる。
スコットは長篇小説6、長篇物語詩3、短篇小説2を読んだだけなので、あまり大きな口は叩けないけど、好きだ。
フローベールはひょっとしたら、それらを〈幼稚な本〉〈安っぽいやつ〉として価値づけたかったんだろうか。まだ無名に近い存在だった作者が、同時代の人気コンテンツにそういうレッテルを貼ったのは、もしかしたら度胸の要る行為だったかもしれない。
でも、『ボヴァリー夫人』は僕にはそんなに響かない。
もちろんエマに同情する気もないのだけど、僕は『ボヴァリー夫人』よりもスコットの『ミドロジアンの心臓』(1818)や『ケニルワースの城』(1821)に心動かされてしまう。スコットを読むと、あー、エマはここで感動したんだろうな、気持ちはわかるなあ。と思うのだ。幼稚で安っぽいと言われようがダサかろうが、そっちのほうが好きなんだ。
ポッドキャストの読書家たちは教養人だから、たんにフローベールの尻馬に乗ったのではなく、スコットを読んだうえで言ってるのだろう。けれど、いま『ボヴァリー夫人』を読んでる人の大半は、エマがなにに胸を焦がしたのかにはさほど興味がないのではないだろうか。ヘタをすると、作者といっしょになってエマの読んでる本を幼稚で安っぽいと小馬鹿にしてないだろうか。読みもせずに。
僕はそれらを〈幼稚な本〉〈安っぽいやつ〉と切り捨ててしまうことができない。だから『美女と野獣』やドーノワのおとぎ話を全力で読んでいる。読まずにバカにするのは厭なのだ。
全力で読んだ結果、自分には合わなかった、ということもあるけど、だからって鼻で笑うことだけはしたくない。
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