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岩波少年文庫を全部読む。(31)メタフィクション児童文学の代表作 ミヒャエル・エンデ『はてしない物語』

(初出「シミルボン」2021年4月29日

装幀上の譲歩

 太り気味で運動音痴で空想癖のある少年バスチアン・バルタザール・ブックスは、母の死後、いっしょに暮らす父ともうまくいっていません。
 いじめっ子の級友の追跡をかわすために古書店に避難した彼は、1冊の本を手にします。

表紙はあかがね色の絹で、動かすとほのかに光った。パラパラとページをめくってみると、なかは二色刷りになっていた。さし絵はないようだが、各章の始めにきれいな大きい飾り文字があった。表紙をもう一度よく眺めてみると、二匹の蛇が描かれているのに気がついた。一匹は明るく、一匹は暗く描かれ、それぞれ相手の尾を咬んで、楕円につながっている。そしてその円の中に、一風変わった飾り文字で題名が記されていた。〔上田真而子+佐藤真理子訳、上巻18-19頁〕

 その題とは、『はてしない物語』です。
 なお、原書オリジナル版(Die unendliche Geschichte, Stuttgart : K. Thienemanns, 1979)の体裁や装幀は、作中の架空の『はてしない物語』の記述を忠実に再現しているので、引用箇所は自己言及的な「紋中紋手法」のようなものになっています。つまり読者は作中人物バスチアンが手にとったのと同じ体裁の本を手にしているというわけ。

 本書の親本である日本語訳の最初の刊本(岩波書店)も原書を忠実に再現しています。

 〈なかは二色刷りになっていた〉とあるとおり、原書オリジナル版でも岩波書店の親本でも、バスチアンの世界を語る基底階層の語りと、後述する作中作(建物でいえば2階にあたるファンタージエンを語るメタ階層)とが、それぞれ紫がかった赤と緑のインクで印刷し分けられています。本記事の引用では、作中作の緑のフォントを太字で記すことにします。
 僕自身(大人になってからですが)この最初の刊本で本作を読み、大いに感心しました。以下、作中作のほうの『はてしない物語』を、【はてしない物語】と表記しましょう。
 のち1990年代に同社《エンデ全集》第4・5巻に、そして2000年に岩波少年文庫に本作が収録されたとき、上下2分冊となったことは、寂しいといえば寂しい、でもしょうがないことなんですよね。

視覚的に組版された入れ子構造

 この本に強く惹かれたバスチアンは、その本を盗み、学校の屋根裏部屋に避難して、この『はてしない物語』を読みます。

 小さな女王〈幼ごころの君〉が支配するファンタージエン国には、小人やケンタウロスや人狼などの空想的な住民います。 作中作である【はてしない物語】は一語一語引用され、基底階層の状況の説明(バスチアンの解説を含む)はつぎのように、視覚的にほのめかされます。ケンタウロスのカイロンの登場場面。

カイロンは〔…〕頭に、いぐさで編んだ奇妙な帽子をかぶっていた。首には、鎖にさげた大きな金のおまもりをかけていたそのおまもりの表面には、明と暗の二匹の蛇がたがいに相手の尾を咬み、楕円につながっているのが見えた。
 
 バスチアンは、はっとして読みやめた。そして本を閉じ──読んでいたページに指をはさんでおくことを忘れなかったが──、あらためて表紙を眺めてみた、やはりそうだった。二匹の蛇がたがいに相手の尾を咬み、楕円につながっている! この奇妙なしるしは、いったい何を意味するのだろう?
 
 このメダルが何を意味するのか、ファンタージエン国のものならだれでも知っていた。これは幼ごころの君の任命をうけたものがつけるしるしで、これをつけたものは、女王幼ごころの君の名において、あたかも女王自身のようにふるまうことができた。
 このしるしはそれを持つものにいろいろふしぎな力を与えるといわれているが、どんな力なのかはだれにもわからなかった。アウリンという名であることはみなに知れわたっていた。
 しかしその名を口にするのは畏れおおいからと、「宝のメダル」とか「おまもり」とか、あるいはただ「おひかり」と呼ぶものも大勢いた。

 
 それでは、この本も幼ごころの君のしるしをつけているわけだ!〔上巻61-62頁〕

 読者が手にしているエンデの『はてしない物語』の装幀のウロボロス(互いに相手の尾を咬む蛇)とバスチアンが読む架空の書物【はてしない物語】のウロボロスの紋中紋手法、そして後者と作中作におけるアウリンのウロボロスの紋中紋手法。紋中紋手法が二重になっています。 読者は、『はてしない物語』と題された本を読むという行動の類似性によって、バスチアンと相同の体験をするわけです。

二層の世界の呼応

 バスチアンの読書の時間経過は、近くの鐘楼の時計の音によって告げられます。

 作中作【はてしない物語】の世界では、ファンタージエン国が危機に瀕しています。この国を救うためには、幼ごころの君に新しい名前をつけられる人を見つけなければなりません。 この国とバスチアンとの間の距離は、まず両者の並行関係によって修正されはじめます。作中作の主人公格である緑の肌族の少年アトレーユが、死の山脈の裂け目に棲む虫の大群イグラムールがに遭遇する場面。

今やイグラムールは恐ろしくい大きな一つの顔に変じていた。青みをおびたはがね色の顔には鼻の真上に目が一つだけついていて、想像を絶する悪意にみちみちた縦長の瞳が、アトレーユをにらみつけていた。
 
 バスチアンは恐怖のあまり、低い叫び声をあげた。
 
 恐怖の叫び声が奈落の裂け目にひびきわたり、岸壁にあたってはねかえりこだまを呼びおこした。イグラムールはほかにも近づくものがいるのかと、目を右に左にまわしてさがした。というのは、前にいる少年はあまりの光景にぞっとして麻痺したように立ちつくし、声をあげたはずがなかったからだ。しかし、ほかにはだれもいなかった。
 
 「イグラムールが聞いたのは、ひょっとするとぼくのあげた叫び声だったんじゃないかな?」そう思ってバスチアンは心底ぞっとした。「だけど、そんなこと、あるわけないじゃないか。」〔上巻120-121頁〕

 フィクションは、主人公の感情を共有させることで読者を魅了することがよくありますが、その中でも恐怖はもっとも基本的なものです。そして、怪物が聞く悲鳴は、作中作の本文では説明されません。バスチアン自身が基底階層で本気で信じずに提示する説明は、語りの階層を侵犯することによって仮設的な意味を成すことができる唯一のものです。

ガルシア・マルケス、ミラン・クンデラ作品も想起

 作中作の若いヒーローであるアトレーユはのちに、魔法の鏡のなかに、自分の姿でもなく、なにかの恐ろしい像でもなく、屋根裏部屋で本を読んでいるバスチアンのような姿を見ます。 現実から完全に切り離された架空の国が舞台になっているはずの作中フィクションが、ここからガルシア・マルケス『百年の孤独』(1967。鼓直訳、新潮社《Obra de García Márquez》)に出てくるメルキアデスの予言原稿のようなものに変貌していくのです。

 アトレーユは、ファンタージエンのすべての存在が虚構であることを示すメタフィクショナルな神託を受けても、よく理解できません。このような逆説的な共時性は、のちにミラン・クンデラ『不滅』(1990。菅野昭正訳、集英社文庫)で披露したものを思わせます。

 バスチアンが、幼ごころの君の顔を〈本にはまったく記されていない細かい点まで、いくつか見た〉(上巻279頁)その一瞬、彼は彼女の新しい名前も思い浮かべます。いっぽう彼女は、自分を救うには〈新しい名前でわたくしを呼んでくれさえすればいい。それを知っているのはかれだけなのですから〉(上巻293頁)と主張します。

ボルヘス的再帰性

 ウロボロス的な入れ子構造は、その後、〈さすらい山の古老〉が書き続けている本が登場することで強化されます。

あかがね色の絹で装丁されたその表紙には、幼ごころの君の胸にかけられた宝のメダルと同じく、二匹の蛇がたがいに尾を咬んで楕円につながっていた。その楕円の中に題名が記されていた。
  はてしない物語
 
 〔…〕それこそ、今読んでいる本だ!〔…〕
 
 幼ごころの君がその方に近よってみると〔…〕男の手の動きは、ふつうに書くというのではなかった。筆がゆっくりと空白のページの上をすべると、文字や言葉がひとりでに形をなし、なにもないところからすっと浮びあがった。
 幼ごころの君がそこの字を読んでみると、それはまさにこの瞬間に起こっていることだった。つまり、「幼ごころの君がそこの字を読んでみると……」と。
〔上巻315-317頁〕

 古老は、自分が書き留めていることがすべて実際に起こっていること、この本がファンタージエンのすべてであること、そしてこの本自体がこの本の中にあることを肯定します。幼ごころの君もバスチアンと同じく、『百年の孤独』の最後に登場するアウレリャノ・バビロニア的な位置を占めています。

 彼女は古老に、ファンタージエンの記憶をすべて語ってほしいと頼みますが、古老はそれを拒みます。もしそうすれば、すべてを書き直さなければならず、書いたことが再び起こるからです。 この目まぐるしいイメージは、ボルヘスのエッセイ「『ドン・キホーテ』の部分的魔術」(1949)の有名な一節と重なります。

ヴァールミーキ作とされる『ラーマーヤナ』の〕最後の巻では、実の父親を知らないラーマの息子たちが森の中に避難している。彼らは隠者から読み書きを教わるが、奇妙なことに、先生役の隠者はヴァールミーキであり、息子たちが勉強する本は『ラーマーヤナ』である。〔…〕
六百二夜の物語はとりわけ不気味なもので、千一夜〔『アラビアン・ナイト』〕のなかの魔法の夜だ。この夜、皇帝は王妃シェヘラザードの口から、自分みずからの物語を聴く。彼が物語の冒頭部を聴くと、そこには他のすべての物語のほか、奇怪なことにこの夜の話も含まれているのだ。〔…〕王妃は語り続け、釘づけになった皇帝は、今や無限に循環する『千夜一夜物語』の一挿話を永遠に聞き続けることを強いられる……。〔中村健二『続審問』所収、岩波文庫、83-84頁。引用者の責任で改行を加えた〕

エッシャー流ウロボロス

 ボルヘスが仮想したこの紋中紋手法の状況は、本作『はてしない物語』で確立されているように思います。古老は、幼ごころの君の頼みをしぶしぶ受け入れるのです。すると…

「こんな字が、ある小さい店のドアのガラスに書かれていた。といっても、うす暗い店の中からそのガラスごしに表の通りを眺めるとき、そう見えるのだったが。
 灰色の、冷たい十一月の朝だった。外はどしゃ降りで、雨の雫がガラスにあたり、その飾り文字の上を流れおちていた。ガラスを通して見えるのは、通りの向こう側の雨にぬれた塀ばかりだった。」

 
 こんな話は知らないや、と思って、バスチアンはちょっとがっかりした。ぼくが今読んでるこの本には、こんなところは全然なかったもの。〔…〕あのじいさんはこのはてしない物語を始めから読むんだと、ぼく、ほんとに思いこんでいたよ。〔上巻324頁〕

当然のことながらバスチアンは、基底階層の語り手と同一ではないキャラクターであり、語り手の言説に触れることがないため、老人の書いていることをすぐには理解できません。しかし僕たち読者はすぐに気づきます。これらの文はエンデの『はてしない物語』の冒頭にある基底階層の物語言説(上巻9頁)、すなわちバスチアン自身の冒険譚と一字一句対応しているのです。エッシャー「描く手」のようなパラドックスです。

 バスチアンは、古老が〈十か十一くらいの背の低い太った少年〉で〈濃い茶色の髪〉と言ったことで、そのことに徐々に気づいていきます。

 古老はバスチアンと書店主カール・コンラート・コレアンダーとの最初の対話(上巻10頁以降)を再現し、最後に主人公は古老が引用する少年の言葉のなかに、自分自身の名前が発音されるのを──もはや読むのではなく──〈はっきり聞いた〉(上巻326頁)

ファンタージエンへ!

 バスチアンは本作12章の最後で、この悪循環を断ち切るために、幼ごころの君につけた名前を声に出し、自らもファンタージエンに入るのです。

 しかし、ボルヘスが夢見たこの逆説的状況は、文字通り確立されたものではなく、若い読者向けの読みやすさを優先したと思われるエンデのペンによって、すでに巧みに回避されていることに留意すべきでしょう。

 古老が言うこと(=バスチアンが読むこと)を完全に引用する代わりに、>基底階層の語りが文を飛ばしてしまう(狭義の同位態──文字列の反復──が部分的なものにとどまる)ので、本作は僕たち生身の読者に、ボルヘスの「『ドン・キホーテ』の作者、ピエール・メナール」(鼓直訳『伝奇集』所収、岩波文庫)の『キホーテ』のように、冒頭4頁(上巻9-12頁)を再現することに耐える以上のことは免除してくれています。

 そして作中作の語り(バスチアンが読む本の本文に等しい)は、古老の語りを再現することさえやめ、その内容と語りの状況を語ることに限定されます。これは、『百年の孤独』の最終章で小説の数百ページを凝縮した数十行に似た現象です。

 古老は、本作の前の文章を一語一句繰り返しているにもかかわらず、作中作の無人称の語り手とは同一ではありません。後者は前者の発話を、まず一語一句、ついで飛び飛びに引用し、最後に要約して表現するのです。

 第12章までは作中作の語りが、つねに基底階層の語りの間に置かれています。つまり前者は後者の合間に挿入されてきました。 読者は、視点人物兼「作中読者」であるバスチアンの読みによって、それらを読んできたわけです。

レーモン・クノー作品との違い

 ここまで赤で印刷されていたバスチャンの行動はこれ以後(岩波少年文庫版でいえば下巻)、ファンタージエン滞在中は緑色で表現され、現実世界への帰還を描いた第26章の最後(下巻395-411頁)だけが赤文字で印刷されることになります。

 ふたつの階層の世界のあいだには、距離というか、設定のずれがあります。『不滅』やレーモン・クノー『イカロスの飛行』(1968。石川清子訳、水声社《レーモン・クノー・コレクション》第13巻)のように、作中作が〈パリ〉〈ブルー街〉といった固有名詞を作中現実と共有しているのとは異なり、エンデの作品における現実と虚構は、そのあいだの距離と質的な変化によって区別されるのです。


 このように小説の空間モデルは、『はてしない物語』の構造に対して、『イカロスの飛行』の構造にたいしてよりも強い支配力を持っています。作中の現実世界から見て、 作中作の世界は、3重の意味で「空間的に隔たっている」のです。第一に、ファンタージエンはバスチアンの住む場所と同じ空間を占めていないこと、第二に、バスチアンの視点から見ると、ファンタージエンは空間的に本の中に閉じこめられていること、第三に、読者の視点から見ると、緑で印刷された「2階」の本文は、赤で印刷された「1階」の本文とは、版面上つねに視覚的に異なる空間を占めていることです。

 この配慮が、語りの階層違犯を利用するタイプのメタフィクションでありながらきわめて読みやすいという、本作の特徴を作り上げているのでした。
Michael Ende, Die unendliche Geschichte (1979)
ロスヴィタ・クヴァートフリーク挿画。上田真而子+佐藤真理子訳。下巻巻末に上田「訳者あとがき」(2000年4月)を附す。
1979年6月16日刊。

ミヒャエル・エンデ 1929年バイエルン州ガルミッシュ=パルテンキルヒェン生まれ。父は画家エドガル・エンデ。シュタイナー学校中退、演劇学校を卒業。『ジム・ボタンの機関車大旅行』『モモ』(岩波少年文庫)でドイツ児童文学賞。作品に『ジム・ボタンと13人の海賊』『魔法のカクテル』『魔法の学校 エンデのメルヒェン集』(岩波少年文庫)、『鏡のなかの鏡 迷宮』『自由の牢獄』『遺産相続ゲーム 地獄の喜劇』『エンデのメモ箱』『だれでもない庭 エンデが遺した物語集』(岩波現代文庫)、《エンデ全集》(岩波書店)、イタリア住まいを経てミュンヘンに住む。1995年歿。

ロスヴィタ・クヴァートフリーク(Roswitha Quadflieg) 1949年チューリヒ生まれ。ハンブルクで育ち、デザインカレッジとハンブルク芸術大学で絵画、デザイン、タイポグラフィを修め、自身の出版工房を立ち上げる。ハンザ同盟都市ハンブルグ出版賞受賞。グラフィックの仕事にベケット『ドイツ日記』など。小説家としても活躍。ベルリン在住。

上田真而子 1930年和歌山県高野町生まれ、広島県で育つ。京都府立女子専門学校卒業、マールブルク大学中退。京都ドイツ文化センターに勤務後、翻訳家に。訳書にチムニク『熊とにんげん』(福武文庫)、エンデ《ジム・ボタンの冒険》(全2作)、ホフマン『クルミわりとネズミの王さま』(岩波少年文庫)、ヴィルヘルム・ブッシュ『黒いお姫さま ドイツの昔話』(福音館文庫)など。夫は哲学者・上田閑照。2017年歿。

佐藤真理子 上智大学ドイツ文学科卒業、ミュンヘン大学で民俗学・中世ドイツ文学を専攻。ミュンヘンの国際児童図書館日本部門勤務を経てフリー。訳書にホルスト・ブルガー『父への四つの質問』(偕成社)、エンデ『満月の夜の伝説』(岩波書店)など。夫はミヒャエル・エンデ。

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