岩波少年文庫を全部読む。(6)アンデルセンはほんとうに人魚姫の肌の色を決めていなかったのか? 『アンデルセン童話集2』
岩波少年文庫のアンデルセンは、前回書いたように岩波文庫の『完訳 アンデルセン童話集』(全7冊、大畑末吉訳)からのベスト版です。
第2分冊では、岩波文庫版第1、2、3、4、6分冊から12篇が選ばれています。
岩波文庫よりこちらのほうが、子どもだけでなく大人にとってもとっつきやすいので、こちらから先に読むのがよいと思います。
とこれで今回の原稿が終わってしまうとマズイので、第2分冊に収録されている「人魚姫」の話をしましょう。
正しさが1年で正反対に
「人魚姫」をディズニーがアニメ化した『リトル・マーメイド』(1989)を、ディズニーみずから実写化するという報道が、昨2019年に出ました。
主人公アリエルを演じるハリー・ベイリーが「アフリカ系アメリカ人」であることが話題となり、もとのイメージとの違いに違和感を覚える人がSNSでハッシュタグを作って発言、それにたいしてポリティカルコレクトネス(政治的正しさ)の観点から反論する人も出ました。
それからわずか1年経つか経たないうちに、こんどは同じポリティカルコレクトネスの観点から、当事者以外が有色人種や性的マイノリティの役を務めること(「ホワイトウォッシュ」など)への批判が高まり、ハル・ベリーがトランスジェンダー男性役を、白人声優マイク・ヘンリーが長期にわたって演じた黒人役をそれぞれ降板するなどの動きがありました。
正しさが1年で正反対になるのは、ちょっと振れ幅が大きすぎて僕はついていけてません。もちろん背景には、アリエルは人魚であって人間ではない、人魚には当事者はいない、ということがあるのでしょうが……。
アンデルセンは人魚姫の肌の色をどう記述したか
僕は映像化がどこをどう変えようが、あまり興味はありません。そもそも人魚なので〈人種〉は字義どおりには関わらない、と判断するとしたらそれは少々素朴ですが、まあいいでしょう。
僕はどうす「べき」かの話は、ふだんからあまり考えておりません。
ただ、去年のアリエル論議で出た意見で、ちょっと気になるものがありました。
さて、ほんとうにアンデルセンはヒロインの肌の色を〈特定していない〉のでしょうか? 原文を読んでみましょう。
上の引用部分、大畑末吉訳ではこうなっています。
問題となるのは"hendes Hud var saa klar og skjær som et Rosenblad, hendes Øine saa blaa"の部分ですね。
skjærは現代のデンマーク語では標準的な綴りではないようです。skærの別綴かな。ノルウェー語の多数派であるブークモール(デンマーク語によく似てる)ではskjærと綴るようです。
参考までに矢崎源九郎訳「人魚の姫」(『アンデルセン童話集1 人魚の姫』所収、新潮文庫)では、下線部はこう。
湖なのか海なのかブレてますが、僕が訳すとしたら
となるかなあ。
肌の色を明記していないからこそ、読者は特定できる
たしかにアンデルセンは、色を明記していません。
では、明記していないから、肌の色は不確定ということになるでしょうか?
いいえ、今回のケースではその逆です。
肌の色を明記していないということは、人魚姫の肌の色が「無徴のもの」、デフォルト的なものだということ、つまり「特記すべき有徴のものではないもの」だということなのだと僕は考えます。
アンデルセンが人魚姫の〈肌の色を本人が原作で特定してない〉からこそ、人魚姫の肌は当時の読者共同体にとっての無徴(デフォルト)のもの、つまり白人のものだったと考えるのが自然です。
だからこそ各種絵本からアニメーションの『リトル・マーメイド』にいたるまで、おそらくほとんどの画像化・映像化で人魚姫の肌は白人ふうだったのです。
ディズニーのアニメを見る前にアンデルセンの童話を読んだ僕の世代の子どもも、おそらくデフォルトで「白人」の姫を想起したでしょう。
もちろんその想像、その決めつけが狭いものだという指摘は受け入れましょう。そのうえで、その狭さは果たして矯正されるべき「正しくないもの」なのかどうか、とくと考えてみたほうがいいと思います。
というロジックは、騎士道小説を読みすぎて自分を遍歴の騎士と思いこんだ田舎のおじさんドン・キホーテが宿屋で宿泊料を要求されて、
「自分は騎士道小説を山盛り読んできたが遍歴の騎士が宿代払ってる記述を読んだことがないぞ」
と支払いを拒否する愚行を想起させます。
薔薇のような透明感とツヤ……(化粧品CMふうに)
人魚姫の肌は大畑訳でも矢崎訳でも〈バラの花びらのように〉(som et Rosenblad)澄んでいて、つやつやである、とされています。〈バラの花びら〉は人魚姫の肌の(化粧品広告風に言えば)「透明感&ツヤ」の比喩です。
でも、透明感やツヤが色抜きで認知されることはありませんし、表現もその認知によって選ばれるものです。
ちなみに「薔薇色」という日本語は英語・フランス語のroseの翻訳として明治期に誕生したと言われます。デンマーク語ではrosenfarvet。どんな色かはみなさんおわかりかと思います。
もちろん、薔薇には真紅の薔薇も白薔薇も黒薔薇も紫の薔薇もある。けれど、「薔薇色」という語が真紅の意味や白の意味や黒の意味や紫の意味で使われることはありません。
それは、肌の色が多様であるにもかかわらず、日本語の「肌色」が特定の色、日本人にとってのデフォルトの「日本人の肌」イメージの色を指すのに少しだけ似ています。これもまたポリティカルコレクトネスに配慮して、薄橙(ペールオレンジ)と名称を変えました。
寄り道 : ミシェル・トゥルニエ『オリエントの星の物語』
薔薇色が白人の「肌色」であるという話の補強材料を置いておきます。
ミシェル・トゥルニエの小説『オリエントの星の物語』(1980。榊原晃三訳、白水社)で、ガスパール王のハーレムを取りまとめているナイジェリア出身の老婆カラハは、白人についてこのように言います。
拙訳だとこう。
西洋文学で肌が薔薇に喩えられるとき、それは白人の、それも血の色が透けるほど白い肌を形容しているのです。
映像化の改変は自由、擁護も自由。そしてどちらも無理筋なら批判される
映像化で原作を変えることは変える側の自由だし、それについて外野が好き嫌いを言うのも自由です。
よい改変もあればダメな改変もあるでしょうし、原作に忠実であることが良い結果をもたらすこともあればダメな結果をもたらすこともあるでしょう。
ただ、アンデルセンが人魚姫の肌の色を明記していないことをもって、〈肌の色を特定してない〉とするのは、イデオロギーをプッシュしたいあまりちょっと雑な勇み足になっていませんか? と上述のとおり思います。
僕には人魚姫の〈肌の色を本人が原作で特定してない〉とはちょっと思えないのです。
原作について雑な解釈が広がるのはどうでもいい。僕自身雑に読んでいるはずだから。
ただ、雑な解釈がイデオロギー的選択の理由づけに用いられるのを見れば、「雑だよ」くらいの指摘はしておきたいんですよね。
設定変更の自由を言うのであれば、「原作に書いてない」なんてことはどうでもよくて、
「「青ひげ」の髭の色を赤にしたっていいんだ!」
「『坊っちゃん』の主人公だってアフリカ系の肌色にしていいんだ!」
くらいのことは言ったほうが一貫しているのにな、と思います。
白人だけの世界を作りたいという欲望
19世紀のようなそこそこグローバル化した時代の個人作家の作品であるアンデルセン童話や、『ホビットの冒険』などの20世紀の個人作家による異世界ファンタジーには、「有色人種」という面倒ごとを考えなくていい世界を作ってやろうという傾向があるはずなのです。
これを書くと「アンデルセンやトールキンを非難しようとしている」と取る人もいることでしょう。でも、そういうつもりはありません。
近代西洋ファンタジー文学の古典が、「有色人種」という面倒ごとを考えなくていい世界を作ってやろうという傾向を持つことを、僕は隠蔽したくないし、そのうえで非難もしないつもりです。いわゆる「政治的正しさ」からすればそういう傾向は「悪」だけど、僕にとってはそのこと自体は非難に値しない。
むしろ「政治的正しさ」を標榜しながらアンデルセンやトールキンを擁護しようとするあまり、
などと言って、彼らの作品に「有色人種」という面倒ごとを考えなくていい世界を作ってやろうという傾向があることを隠蔽するほうが、僕にとってはよほど居心地が悪いのです。
さてディズニーアニメの実写化といえば、リリー・ジェイムズが出てた『シンデレラ』もいい作品でした。映像化での有色人種起用はポリコレコードには合致するんでしょう。
けど僕としては原作の「白人(に似た存在)しかいない世界」の気持ち悪さを映像で隠蔽してしまうのが勿体ないと感じるんですよね。
アンデルセンがどう書いてようと映像制作者には主人公の肌の色を違う設定にする自由があります。
受け手にはそれについての好き嫌いを言う自由があります。
それを読んだ人にはその表明にたいする好き嫌いの自由があるんです。
感慨にも好悪にも「正しい理由」はいらない
感慨を持つのに理由はいりません。公言するかどうかには多少の理由がいることもありますが。
感慨を抱く条件を説明しても、「べき・べからず」の議論には乗らないでおきます。
自分の好みを「べき・べからず」「してよい・してよくない」の話で粉飾したくないし、してる人を見ると「してるよ」とは言いたくなるのです。
僕は、爵位があって貴族と労働者がきっかり分かれてる『きかんしゃトーマス』の世界に、ケンジ(JPN)だのヒロ(JPN)だのヨンバオ(CHN)だのニア(KEN)だのアシマ(IND)だのがフィーチャーされて、大好きなエドワード(GBR)の出番が減ることを少し寂しく思っています。
僕は原作の(時代的な、あるいは思想的な)限界それ自体に「ヒト」のヒトたるゆえんを見出して喜ぶ派です。
「現代的にアップデートしときました」と自分が正しいつもりになってる姿勢もいつかは
「21世紀という時代的な限界」
になるということを知っています。
だから、いまのこの騒ぎを「時代的な限界」として楽しめる時代まで僕は生きられないっぽいのは残念です。
もっとも、何度も取り上げられたお話というものは、その時点その時点で「現代に合うようにアップデート」されているものです。
ラシーヌの古典劇ではギリシア神話の登場人物たちが17世紀フランスふうに考え、歌舞伎では鎌倉・室町時代の武士が徳川時代のように装う。
実写版『リトル・マーメイド』もそんな感じ?…ちょっと違う?
「人魚姫」の話だけで長文になってしまいました。本書には他に「マッチ売りの少女」「野の白鳥」などの代表作が収録されています。「野の白鳥」については次回触れるつもりです。
2021年1月27日追記 : 『ヴィルヘルム・マイスターの修行時代』との関連
昨年11月に本項を公開してのち、脇明子『少女たちの19世紀 人魚姫からアリスまで』(岩波書店、2013)を繙読し、人魚姫の造形・機能がゲーテの先行作『ヴィルヘルム・マイスターの修業時代』(1795。山崎章甫訳、岩波文庫)のミニヨンによく似ているという指摘を読んで驚きました。
たしかに! どうして気づかなかったんだろう…。
本書収録作について
「コウノトリ」「人魚姫」「ヒナギク」「野の白鳥」は『アンデルセン童話集1』(岩波文庫)より再録。
「ブタ飼い王子」「青銅のイノシシ」「天使」「ナイチンゲール」「マッチ売りの少女」は『アンデルセン童話集2』(同)より再録(一部改題)。
「パンをふんだ娘」は『アンデルセン童話集4』(同)より再録。
「銀貨」は『アンデルセン童話集6』(同)より再録。
「ある母親の物語」は『アンデルセン童話集3』(同)より再録。
Hans Christian Andersen, Eventyr og Historier (1835-1874)
1986年3月12日刊、2000年6月16日新装版
ハンス・クリスチャン・アンデルセン、大畑末吉、初山滋については以下のページ末尾を参照。
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