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文学理論ノート

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実作(おもに小説の)を読むことから、文学理論へと出発するためのノートです。
不定期更新。各記事は公開後一定期間は実質無料ですが、しばらくすると有料になります。マガジン購読者限…
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2019年9月の記事一覧

【期間限定無料】こんな終わりかたをした理由は?──フリオ・コルタサル「続いている公園」(5)

 コルタサルの「続いている公園」についての記事、最終回です。  前々回に書いたように、「続いている公園」の結末で狙われるターゲットは、 かなりの高確率で、 (a)その小説を読んでいる〈彼〉当人 だけど、 (b)〈彼〉が読んでいる小説のなかに出てくる、たまたま彼と同じような状況で本を読んでいる一登場人物 である可能性を100%排除することはできない なわけです。  ということは、ですね。 どうしてこんな終わりかたをしているのか?  冒頭の、農場経営者である〈彼〉は、「続い

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【期間限定無料】〈彼〉は殺害されたのか?──フリオ・コルタサル「続いている公園」(4)

 コルタサルの「続いている公園」についての記事、4回めです。 〈樫の木〉vs.〈ポプラ並木〉?  ところで、「続いている公園」の冒頭の農場経営者の読書場面では、 樫の木の公園に面した静かな書斎で本に戻った。 大窓のむこうでは夕暮れの大気が樫の木の下で戯れている。 と書かれていて、いっぽう結末近く、作中作の暗殺者がターゲットの屋敷に忍び寄る場面では、 あの屋敷に通じるポプラ並木が浮かび上がった。 との記述が見られます。 「〈樫の木〉と〈ポプラ並木〉では木の種類が違う

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【期間限定無料】最後に小説を読んでいるのはだれか?──フリオ・コルタサル「続いている公園」(3)

前回書いたように、僕ら読者は、いわゆる「三人称」小説の作中世界の情報を、その語り手から直接得ることもあれば、作中の視点人物を経由して得ることもあります。  いま話題にしている「続いている公園」のばあい、作中世界だけでなく作中作の世界の情報も、作中で小説を読んでいる農場経営者である〈彼〉の視点で入手しているわけです。  そして「語り」と「視点」は分けて考えよう、という話で前回は終わっていました。 視点人物の入れ子 前回も書いたのですが、「続いている公園」の語りは単独の視点

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【期間限定無料】「視点」は「語り」ではない──フリオ・コルタサル「続いている公園」(2)

 前回に引き続き、「続いている公園」のお話。 農場経営者は作中世界(および作中作の世界)の情報のソース(視点人物)  さて、前回書いたように、僕ら「続いている公園」の読者は、作中世界の情報を、農場経営者である〈彼〉の視点で入手しています。  当然、作中作である〈小説〉の世界の情報も、作中でその〈小説〉を読んでいる農場経営者である〈彼〉の視点で入手しています。  僕ら読者は作中に出てくる〈小説〉の本文を直接読むことはできず、あくまで農場経営者の読書行為の報告の形でのみ、つま

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【期間限定無料】このあと、読者はどうなった? : フリオ・コルタサル「続いている公園」(木村榮一訳『遊戯の終わり』所収、岩波文庫)

 以前予告していたように、まずはこれ。  アルゼンチンの小説家フリオ・コルタサルの短篇集『遊戯の終わり』(1956)から、掌篇小説「続いている公園」。 Julio CORTÁZAR, "Continuidad de los parques" in Final del juego, 1956.  翻訳でたった2頁程度のお話です。どんな話かというと、  え? 上の画像がネタバレしてる?  ホントだ。カヴァーに思いっきり書いてある。 肘掛け椅子に座って小説を読んでいる男が、ナイ

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小説もコミュニケーションだ。

たまに小説を読む話をします。 この記事は最初のうちだけ「実質」無料ですが、気がついたら有料になってる可能性があります。 ここで書くのは批評でもなんでもありません。 僕はべつに、小説の読み巧者ではない。 そもそも小説なんて自分ができるように読むしかないので、 「俺の読みが正しい、あいつの読みは間違っている」 といったことに、興味がないのです。 むしろ、ふつう程度の(つまり、たいしたことない)頭しかない僕が小説を読むときに、そのたいしたことのない頭がどのように働いているの

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