さみしい夜のおやつ〜ドーナッツ〜
『幸福の味について〜ドーナッツ〜』
一年ほど前に人生が急転直下するような事態があって、精神を病んだ。何度も死にたくなり、ネットの胡乱な情報を信じて首吊りを敢行したが死ねなかった。そんなことを繰り返して四つの季節がひとめぐりしたが、気分の落差の程度は変わらず、病院から出された薬を毎日何粒も飲む生活から離れられないでいる。
突発的な行動に出る症状を抑えるのは、体を拘束すること、つまり始終絶えず眠たくしておく他にないようで、漠然とした不安を夢うつつに思い描いては布団でうずくまっているのが、その頃の私の「生きること」であった。
こんな状態で過ぎていく時間が惜しかった。かといって何かをすることもできない。眠たくて眠たくて、本当に眠たくて、朝ごはんを食べて寝て、昼ご飯を食べて寝て、夜ご飯を食べて寝る。大好きだった本を読むことも、雑文を書き散らすことも、紅茶を楽しむこともできない。薬のためにお米に海苔の佃煮をかけたものを胃に詰め込む三食がいっぱいいっぱいだった。
でも何かしたい。そういう欲求が希死念慮を呼び寄せる。首に細いネクタイをくくって失敗したところを母に発見され、そのあとの病院で薬とは違う処置を受けた。
それがこんな言葉だった。
「死にたくなったらさ、何か美味しいものを食べなよ。美味しいって幸福だよ。そういう幸福を思い出すの」
お医者さんは言い慣れている風に、何気なくそう言った。食べ物の味を気にしなくなって、食事のうまいもまずいも感じることがなかった私にそれはたいそれたことのような気がしたけれど、今起きていられるほぼ唯一の時間が食事の時間であるから、それを充実させることはとても理に適っていることのように思えた。
「じゃあ」
母は乗り気で付き合ってくれて、その日ミスタードーナツでチョコリングを買ってきてくれた。チョコリングは亡き父が好きなドーナツだった。私は泣きながらそれを食べて、泣いて泣いて泣いて、泣きながら起きている時間の延長に成功したのだ。こんな療養方法があるとは思わなかったけれど、それはどんな形であれ効果を示したのである。翌日の朝、起きてまた別のドーナツを食べた。
苦しいことや悲しいことを甘いもので紛らわすのはよくある話である。ストレス性の過食って多分そんな感じなのかもしれない。でも甘いはうまい。うまいは嬉しいことである。生きているだけで苦しい現代。ただ生きているだけでお金が減り、時間が減り、キャリアが消え、人との交流が途絶え、流行においていかれる世界。働いても給料は低く残業ばかりで幸福度は給料では贖えず、ラクになりたいと言えば怠け者と謗られる幸福のない世の中で、私が見つけることのできた小さな幸福はありきたりではあるが「甘味」であった。
それからは何かの折に触れて気落ちした時に甘いものを食べるようにした。おやつの時間に起きていられるようになり、おやつを通して母との少ないコミュニケーションの時間が生まれ、やがて腹ごなしの散歩に出かけられるようにもなった。
精神が前向きになり、薬のメリットよりもデメリットの方が強く感じられるようになるまでになり、甘味療法は今のところ成功を示している。
今日も帰りにミスドに寄った。そしてチョコリングを買った。はちみつ入りのコーヒーと共にそれを食べる。それが今の私の幸福である。noteを綴れるようになった私の幸福である。
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