パンドラの箱の底。最後に残った希望。
10度目の3月11日がやってきました。
この時期になると、あの時を追いかけてしまう自分がいます。
"節目は残された人のためにある"といわれますが、まさにそのとおりだなとしみじみするものです。
様々な思いが去来しますが、大きな災害の中で私は当時ただただ翻弄されていたように感じます。正解がない中で誰かが決めた正解にただただ盲従していたような。真剣にやっていたからこそ打ちひしがれたり、衝突したり、悔しさを感じたり。そこでやり切れなかった想いに向き合う10年だったように思います。
パンドラの箱、というお話があります。まだ災難というものが世界に存在しなかった頃、パンドラという名の女性にすべての悪と災いを封入した箱をもたせました。パンドラはその箱を開けてしまい、中に入っていたあらゆる災いが人間界に解き放たれてしまいます。彼女はあわてて蓋をしました。すると箱の中に、希望だけが残った。というお話です。
この10年間、そんな災いと戦い続ける日々だったように思います。人や人の営みに絶望しながら諦められず、散々もがいた結果、希望を見出して信じることにしました、という感じです。
人の醜い部分に触れました。
ただその醜さを"悪"と片付けることができませんでした。
給付金を握りしめてパチンコ屋に通うことも、汗を流して皆のために働く人の横で、力を出せずにうなだれていることも。大切なものを失った方々の気持ちがわからない私は、どう向き合えばいいか悩んでいました。
ここから人への興味を持ち始めたように思います。心理学や周辺の学術書を読み漁りました。マズローの欲求段階説に触れ、時代遅れだのなんだのということからバンデューラやサラー、サリーなどのも。もう詳しい内容は忘れてしましたが。
そこで私は
人は基本的に他人に優しくしたくなるよう設計された生き物であり、優しくなれない時が存在する
という結論に至りました。これは今でも変わっていません。
私がFFS理論を好んでいるのもここが源泉です。FFSはストレスの状態によってポジティブ、ネガティブな反応が起こるとしています。
また、ボランティアではコミュニティ形成によって震災後発生した孤立や孤独に抗いました。私が直接会った人ではなかったですが、先輩が熱心に気を配っていた方は最終的に自身で命を絶ちました。コミュニティに力はなく、補助金の終わりとともに先細りした活動はまるで、コミュニティが無価値であるかのように映りました。
当時一度絶望し、価値のないものに見えたコミュニティという分野に今も取り組んでいます。そして、少し自分でも驚いたのが、今のTAISYは当時私がコミュニティ形成において必要だと思っていた機能にあふれているということです。
誰と何を話したかは紙に記録していました。
前任者が残した記録を読みながら、お年寄りのお家に訪問しました。
信頼関係の築けていない中で早く価値を発揮する上で、長くボランティアをしている人との連携は重要でした。
また、ボランティア団体間での横の情報のやり取りがうまくいっていなかったため、何組もの人達が同じ家で同じ質問をすることになりました。
もしこういった時間のムダを回避できていたら、もっと孤独や孤立に苛まれていた人を救えたかもしれない。自ら命を絶ってしまう人が、1人でも減ったかもしれない。
TAISYは、あの頃の自分が必要としてたもの、あの頃多くの命を奪った"コミュニティからの孤立"を救うものとなりつつあることに気づきました。
TAISYの大切なコンセプトの一つに、1人のコミュニティマネージャーの課題解決力を高めるということがあります。
「この人に頼ればなんとかなるかもしれない」「この人に頼ってダメだったらもう死のう」その、一本の蜘蛛の糸のような細く弱い希望を持った人。その人が頼った先が必ず解決に繋がるものでありたい。
また、仙台でスタートアップとして活動する上でも大切にしていることがあります。
それは、陸前高田の奇跡の一本松でした。
立ち枯れの恐れがあったため、2億円もかけてサイボーグ化したあの一本松です。
ネット上では批判の嵐でした。私自身もそのお金の使いみちには半信半疑でした。
陸前高田の街に入りました。あらゆるものが破壊しつくされ、かつて街があったとは思えない原っぱと廃墟の中で、唯一立っていたのが一本松です。何物にも代えがたい。あの松を見た時涙が溢れました。
この松がなくして、誰がもう一度ここに街を作ろうと思えようか。
そんな気持ちになりました。
仙台でスタートアップを志すには様々な困難がつきまといます。
未だにメンターは東京に来いと言いますし、スタートアップのことを起業だと思っている人が経営者にもまだ大勢います。
それでも私自身があの一本松でありたい。皆に支えられながらも強くそそり立つ。あの時多くの人の希望となり、勇気づけられ、もう一度、なにくそ、負けるもんかという活力をくれた一本松に。
仙台で起業を決めた時、泣きながら手を取って喜んでくれた人がいた。
東北はイケてない、と言う側からやる側に変わった。
だから必ず成功しなければ、地震にも津波にも耐える成功を。
そうしていたらきっと、また人は営み、街はできるのです。
そんな想いが、今と10年前を繋いでいます。
誰かにとっての素敵な3月11日が、当たり前にくるはずの明日が、予定通りやってきますように。
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