儒教についての私見
儒教の教えには「五常」と
「五倫」というものがあります。
まず「五常」ですが、おなじみの
「仁・義・礼・智・信」のことです。
これらの徳目を守ることが、アジア圏に
おいては「美徳」とされています。
私見を述べる前に、ご存知とは思いますが、
「五常」とは何であるか、ここでおさらい
しましょう。
まず「仁」は、人を愛し、思いやること
です。これが儒教の根幹を成しています。
「義」は、私欲にとらわれず、行動することをいいます。
「礼」は、増上慢にならずに謙遜し、
相手に敬意を払って接することをいいます。
(「仁」を具体的な行動にしたもの)
「智」は、偏らずに幅広い知識や知恵を
習得し、道理をわきまえて、善悪を判断
することです。
「信」は、人を欺かず、また人から信頼してもらえるように約束を守り、嘘をつかず、
誠実であることをいいます。
また、「五倫」とは、
「父子・君臣・夫婦・長幼・朋友」
との関係を維持するために「五常」の考えをもって接するということを意味します。
さて、ここからは私の考えですが、五つの
関係の中に、「君臣」が入っていることが、問題なのです。
なるほど孔子の説くような、堯、舜、禹などの古代の徳治政治だったら、五常をもって接するべきでしょう。
しかしこれは為政者を父や母のように敬う
べきである、というシビリアンコントロールに用いられる危険性が大きいのです。
本来は、君臣ともに五常をもって接する
ならば、民を愛する主君であって然るべき
ですが、
大抵の主君が軍事力で政権を奪取するのが
世の常ですから五常は一方通行になります。
これは孔子が生きた時代と関係があります。
時、あたかも春秋戦国時代。
秦の始皇帝によって中国が統一される前の
群雄割拠の時代です。
君主とは、古代の聖王のようにあるべきだという基本的な考えありきの倫理観です。
いわゆる理想世界の話です。
理想の社会像ですので、非常に響きがいい。
韓国ほどではありませんが、日本も倫理、
道徳の根底に儒教がありますので、
この教えは非常に素晴らしく、もっともに
聞こえます。
少々、穿った見方になりますが、武によって天下を我が物にせんとする戦国武将達がこれらの徳目を好んで用いたのも、シビリアン
コントロールの側面を否定できません。
織田信長の「天下布武」の方が、戦国武将の本音という感じがして、よほどすっきりするのではないでしょうか?
「伊達政宗と五常訓」の記事でもう少し
掘り下げてみたいと思います。