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【オールド】
コロナ禍入る前に近所にできたオーセンティックバーが営業を再開した。
ここは営業自粛期間の日中バナナジュースを売ってて、とても美味しかったので何度か伺っていた。バナナジューススタンドがコロナ禍の中で流行っていた瞬間があって、この店でバナナジュースを売り始めたのはその頃だ。
しかし、やはり折角こういったきちんとしたバー、ひとりしみじみ飲める場所が近くにあるからには飲みに行きたいと思っていたので再開を待ち侘びていたのだ。
漫然と安酒を飲むことを嫌うわたしは家に酒は置かないことにしている。
此処といえる店で此れぞといういい酒を飲みたい。できれば組み合わせの妙を味わえるアテが出せるところで。それに合致する店が徒歩圏にあるとなれば行くしかない。
用事のない日の夕方に出向くと、平日だけあってカウンターのみの店はまだ客が入っていなかった。まだ四十路にはならないくらいの若い細身のマスターが蝶ネクタイにジレという理想的な姿で出迎えてくれた。
「いらっしゃいませ」とともに「ご希望に合わせてお作りできますので」と言い添えて。
淡々と仕事をしているその音を聞きながら、わたしは棚を眺める。
此れがあるならこれとこれができるな等と思いながら端からのんびり見ていると、ウイスキーの並びの中に見覚えのあるものがあった。ダルマという呼び名のとおりの、ずんぐりむっくりという表現が似合う黒い丸っこいボトルだ。
「あ、オールドがある」
思わず呟くと、マスターが「お試しされますか」とボトルを手に取り、目の前に置いた。
「いや、懐かしいなと思って。すみません」
じっと目の前に置かれた黒いボトル。そう。このオールドは物心ついた頃には必ず家の戸棚にあった酒だ。
神社や寺の世話役だった父は祭礼の都度、または中元や歳暮、内祝と、とにかくよく酒を戴いていた。
それこそ、わたしの生まれる少し前の時代は、オールドは今の山崎のような立ち位置だったと聞いたことがあるので、結構いいものを貰っていたということになる。こちらはブレンデッドウイスキーではあるが。
父は若い頃は、泊まり勤務のない休日になると家に旧友を招いては頂き物の酒を惜しみなく放出して飲み交わしていたりもした。
尚、そのあたりの3歳とか4歳の頃は、まだわたしの持病は発覚していなかった。そのため父は胡座をかいた脚の上にわたしを載せ、晩御飯としてつまみに出された料理を食べさせていた。そしてそのついで、ひと口ふた口程度だが酒を貰って飲んでいた。
今では考えられないだろう。まったく、この時代にSNSがなくて本当によかった。おそらく今の時代だったなら母が愚痴を書き込んでモーレツ大炎上である。
しかし、その時舐めるようにして貰って飲んだ水割りは薄いにもかかわらず、子供にも解るほど甘みがありいい香りがしていた。
ビールやワインは飲まされるのは好きではなかったが、ウイスキーや日本酒、果実を漬け込んだ甲類焼酎を飲ませて貰うのは楽しみだった。今も酒の趣味は大して変わりない。
オールドは氷を詰めたグラスで水割りにしてしっかりステアして飲むことで口当たりや喉越しが良く食事にも合い、それでいて甘い余韻と芳香が残る。あたりの良い焼酎を飲んだときのようで、わたしは改めてこの酒を気に入り、よく飲んだ。
成人して堂々と飲み歩くようになってからも、知識がなかった頃は子供時代飲んだウイスキーの味を思い出す度「同じ麦を使って作られる酒のはずなのに、何故ビールと違ってこんなにも甘いのか」と思っていた。
しかし或る日飲みに出た先で夜の街のおねえさんやオジサマから「あれはシェリー樽で熟成した酒だからね」と教えてもらって知った。
シェリー酒が白ワインに無色のブランデーを添加して空間に余裕をもたせたオーク樽で熟成したものだと知ったのは更にその後だ。
つまり、わたしはワイン自体は好まないのにその仲間を寝かせたオーク樽に更に詰め直して熟成させたものを飲んでいた。味覚のマトリョーシカだな、となんとなく思った。
「他のものにされますか?」
いや、久しぶりに原点に戻るのもいいかもしれない。
「カクテル頼もうかと思ったけど、オールドのシングル、水割りにしてください」
畏まりました、と言ってマスターは準備を始める。グラスに氷が入る音、酒を注ぐときのボトルに空気が入る音、ステアしてグラスに氷があたる音が心地よい。
やがてグラスが黒い革のコースターの上にそっと置かれる。口元に運び、僅かな量を含むとあの甘味と芳香がふわりと口の中に広がった。
「あ~、これだ。懐かしいな」
しみじみ味わっているといろいろなことを思い出す。父は集まりなんてなくても食事の際いつも晩酌としてこのように薄い水割りを飲んでいた。時には野球の中継を見て「今年の〇〇はだめだ」等ぼやきながら。そしてある時は映画番組でスプラッターホラーを観て何故か笑いながら。
父は酒飲みではあったが、家の中で酒を飲んで怒ったり暴れたりというのは先ず見たことがない。薄い水割りを飲んでテレビを見てのんびりひとりの時間を楽しんでいた。世の酒飲みの蛮行を思えば可愛いものである。
思い出しながら寛いでいると、チャームが提供された。ここはチャームを複数用意していて、最初オーダーする飲物によって出すチャームを変えているらしい。
「アスパラとベーコンのバターソースペンネです」
住宅地の入口のバーに相応しい、なんとなく家庭的なチャームだ。口に運ぶとアスパラガスの風味とベーコンの鹹味、バターの風味がよく合う。そこにスッと酒を含むと心地よく馴染む。
気持ちよく食べて飲んで、すっかり寛いでしまい洒落たものを頼む気分ではなくなってきた。
「他に、このウイスキー使って何か作れる?」
問いかけると、マスターは穏やかに答える。
「では、当店の定番の品ですが梨とウイスキーのカクテルはどうでしょう。グレンフィディック12年で作ることが多いですが、オールドでも合うと思いますよ。お試しになりますか」
わたしは勿論二つ返事でお願いした。