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アニメータと漫画家の絵の違い

アニメーターは先ず、個性を消す――そんなポストが、𝕏(旧Twitter)に流れてきました。

外国人アニメーターを教育する際、まずは個性を捨ててマシーンの様に正確に決まった線を引け(動画)という所からスタートさせるのなかなかハードルが高いなと思う。
海外でアニメーター志望してる子達が見せてくるポートフォリオは基本個性がありありと出た絵なので、その個性を潰して為らすのが始まり

https://x.com/otarou01/status/1823217401141567728


①真似るが学ぶ?

日本の習い事は、真似る=学ぶで、まずは模倣を進めることが多いですね。
守破離、なんて言葉もあるように。まずは先人の姿形を真似て、コピーすることが求められます。
逆にアメリカは、個性重視。
自己主張が強くないと、生き残れない社会ですからね。

日本の子達だとこちらから言わずとも模写したり既存の作品に似せる事を前提に描かれた絵がポートフォリオに多い。
日本のアニメは監督やキャラデを頂点とした同質絵の量産化を求められるので、変に個性を出されると逆に不利になる。

https://x.com/otarou01/status/1823217402559246597

そうなんです。
元アニメーターの漫画家に言わせると、ある意味で個性を消すことが求められるのが、アニメーション。
キャラクターデザイナーになるならともかく、アニメーターとして動画マンから原画マンを経て、作画監督を目指すなら、強すぎる個性はかえって邪魔に。

②東アジアの文化

漫画家の場合は、逆にヘタと言われても、ひと目で分かる個性が大事。
これは書道でも、美味いけれど個性がない人は、達筆とか能書家とは言われても、書家とは言われません。
相田みつを氏の字は、素人には下手に見えますが、少なくとも一目で誰の書か、わかります。
これは、キュビズム以降のピカソの絵画もそうですね。
子どものような下手くそな絵を目指した。
でも、個性は誰よりも明確です。

なので日本のアニメの現場で絵を描きたいのであれば没個性で技術をひたすら磨け、下積みを何年もやってようやく自分の絵がそのまま画面に出る様になるという過程は現状アジア圏の労働慣習ににマッチした環境だと思う。

https://x.com/otarou01/status/1823217404463517849

この、先人の教えを守って模倣する文化は、東アジアの中華文明の影響でもあるんですよね。
なので、お隣の韓国や中国、東南アジア各国で、アニメーターが一定数育ち、外注ができる。
集団作業のアニメーションという文化は、東アジアの文化がベースにあるようで。

③職人と芸術家と

アニメーションも、新しい機器や方法論の開発で、昔ほどは人海戦術ではないですが、それでもそれは動画などの作業量の省力化がメインで、やはり原画マンや作画監督の役割は大きく、そこは職人技の世界でもあります。
アニメは、脚本や監督以外は、職人の技術が必要で、芸術家とは違う部分を支えます。

あと、国によっては日本のアニメが心に闇を抱えた子達の救済の場になっているので、そういう所で見るポートフォリオは見るだけでもなかなかキツい。
実はアニメを作るには経済的余裕や文化的な豊かさに加え、没個性的な環境でも淡々と役割を果たし集団に同化出来るなどかなりの素養が求められる

https://x.com/otarou01/status/1823219707253793072

この指摘は重いですね。
確かに、アニメが救いという人はいます。
でもそういう人は昔は、文学(小説)に救いを求めたんですけれどね。

三島由紀夫の『仮面の告白』とか、同性愛傾向のあるニンゲンとか、周囲にそういう仲間がいない地方などの人は、小説を通して、自分の心をわかってくれる人がいると、共感したわけで。

そこが行き過ぎると、京都アニメーション放火事件の犯人のように、特定のアニメスタジオに過剰な思い入れを持ったり、困ったことに。
本来は、そういう心の乾きを感じた人間は、小説とか漫画とか、創作の方向に向かうのですが……。

④漫画家とアニメーター

京アニ事件の犯人は、一生懸命書いた小説でまったく反応がなく、その現実を受け入れられず。
自分の作品は京アニが盗作するほど素晴らしいものだった、という因果の転換を起こして、凶行に走ったのですが。

クリエイターを目指すタイプには一定数、そういう過剰な自意識と現実の評価のギャップに、苦しむ人もいます。
ある意味、職人的に仕事をいとわず続けられる根気がある人は、アニメーターとして、モノになる可能性もあるのですが。

日本のアニメスタジオの採用基準も基本的に技術と勤勉さしか見られない。
「絵が上手い」は技術面を評価する言葉で、どんなに絵が上手くても独特な世界観を持ってる子はやはり敬遠されてしまう。
「この子は上手いけど、個性が強すぎるからアニメ向きではないな」という話は何度か耳にした

https://x.com/otarou01/status/1823220905155432842

そう言われて、漫画家になろうと転向した人を、講師陣は何人か面倒を見ました。
宮尾岳先生も、アニメーター時代の絵を拝見すると、宮尾先生だと解る個性が出てるので、漫画家になられたのは、必然なのかも知れませんね。

逆に、漫画家志望の学生などで、絵を描くのは大好きだけれど、作話やキャラクター造形に興味が薄いタイプに、アニメーターを勧めることもあります。
それで、実際に番組のテロップに名前が乗った教え子も、何人かいます。

ひょっとしたら、将来的には監督とか脚本とか、作話への気持ちが生まれたら、そっちに進むかもしれませんが。

⑤職人から芸術家へ

せっかくなので、元アニメーターの漫画家である宮尾岳先生の、貴重な言葉も引いておきます。

自分が絵描きのプロの第一歩に、アニメーターを選んだのは正解だった。

その一番の理由は
【描かなきゃいけない物は、何が何でも描く】を、叩き込まれた。

好き嫌いとか
描いたこと無いとか
よく知らないとか

そういうコッチの理屈は関係ない。
 
【絵コンテで求められてる物は描く】だ。

https://x.com/GAKUJIRA/status/1814284378106941671

アニメーターは、ある意味でものすごい画力が求められますね。漫画家よりも、そこはハード。
というか、鳥山明先生風の絵でも原哲夫先生風の絵でもつくしあきひと先生風の絵でも、描きこなす柔軟性が必要ですから。

漫画家は、一種類の個性的な絵が描ければ、必要十分ですから。
でも、最初にアニメーターという高い作画能力を求められる場に就職した結果。なんでも描けるようになったわけで。

結果、ある意味で難易度の高い自転車と、デフォルメされた人間を合わせるという高難度の技術が必要な、アオバ自転車店を描ける素地が育まれたわけで。

大道無門――人は最終的に、自分の甲羅に合わせて穴を掘るり、自分の成れるものに成るのかもしれません。

アニメーターと言うことに関しては、鈴木みそ先生の『銭』のアニメ界の話、本当に素晴らしい内容ですので、オススメします。


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