「注文に時間がかかるカフェ」の動画を見つけた人には本も読んでほしい
こんにちは、千夏です。今回は「注文に時間がかかるカフェ(省略形は注カフェ)」の話を書きますね。
「注カフェ」とは吃音があってこれまで他人と関わったり、カフェのバイトをしたりすることを諦めてきた人たちが一日限定で挑戦できるカフェのことです。
今まで全く話題に出していませんでしたが、ずっと「注文に時間がかかるカフェ」の活動をひそかに追ってきました。
吃音のことは割と友達に話している私ですが、お客さんとしても店員としても参加経験はありません。
注文に時間がかかるカフェ | Slow Order Cafe (peraichi.com)
参加を検討した理由
ですが、実を言いますと、私はこのカフェに参加しようか迷っている時期がありました。
私もカフェのバイトを吃音で諦めた人の一人だからです。
実際にカフェの面接を受けてみたところ、「ここでは挨拶の秒数が決まっている」「あなたには無理だ、他を当たってほしい」とはっきりと言われました。悔しくて泣きながら3キロくらい散歩してくたくたになったのを覚えています。
参加をやめた理由
ですが、メディアでこの注カフェを見ているうちに、映りたくないなという気持ちが高まりやめました。
ここが重要なんですが、私が映りたくないのは吃音であることを隠すためや自分の顔を写されたくないと言った単純なものではありません。活動はすばらしいものですし、参加者や発起人の奥村さんを否定したい気持ちはありません。
私はメディアの編集のされ方、YouTubeでのコメント欄に強い違和感を覚えました。
「感動した」「私もこういう人にやさしくして生きたい」「話すのが苦手なのに頑張っていて偉い」「この人たち症状が軽すぎ」「こんくらいの症状なら別に良くない?」「コンプレックスと闘っててすごい」「かわいいから受けいれられているだけ」
あれ?なんか思っていたのと違うぞ、と直感で思いました。
私は単にやりたかったけどできなかったことをしたいだけ。それなのに、実名と顔を出して感動の道具にならなきゃいけないんだろうか。しかも私よりずっとずっと暗い過去を経験した人と一緒に働くのか。私の経験や悩みなんてまだまだかわいいものだ、そんなことで悩んでいるの?って思われたらどうしよう。それに、吃音に関する闇を知らないと活動に参加できないのか。
私は一見ポジティブに見える言葉すら変だなと思ってしまいます。
外見が可愛いから受け入れられていると思うのはルッキズムのせいだし、軽い人がカフェに多くいるのは表面的には軽く見えても、悩みや吃音があるという事実や吃音の症状に関してを否定されてきたからだろうし、そもそもコンプレックスになったり、頑張っていて偉いと思われたりしてしまうのは吃音の認知度や理解度がまだまだ低いから。
「苦しいことを乗り越えていて偉い」と言うけれど、その苦しいことを作り出すのは社会の偏見や無理解なんです。そもそも偏見がなく、適切に合理的配慮がなされれば、苦しいことを乗り越える必要はないんです。私の苦しみが軽んじられるのは、そんなに苦しくなかったからなのかもしれません。
私は少し合理的配慮をうけましたし、大学以前は当事者である意識を忘れるほど苦しまずに生きてきました。
違和感をどこに持つのか
昔から吃音に関するメディアの表現に違和感を持ってきた私。
ついでに言うと「上手に話せない」と言う言い方も何かなあと思っています。
そもそも「上手に話せる」というのは吃音を持たずに流ちょうに話せる人を基準にした言葉なので、吃音を持って生まれた時点で「話すのが下手」と決められてしまうように感じるんです。
共存していくなら、吃音がない人が求める「話し上手な人」になることはないんです。
(※もちろん話すテンポがゆっくりでも、吃音があっても
話すことが得意な人、上手な人はいます。
ですが、流れるように話す人が「話し上手な人」なのだとすると丁度良いテンポや間合いで話す人になると思うんですよね。)
こういう表現が結局「話すテンポがゆっくりでも受け入れてあげるよ」という吃音の無い人の上から目線な姿勢につながるような気がします。あなたはありのままで良いんだよとか、私は気にならないよとか言われてもそういうことじゃないんだけどと思ってしまいます。
この違和感を持ったまま参加するのは難しいと思い、断念。
活動には賛同しますが、吃音がない人が創り出す感動話の一部にはなりたくないんです。吃音はあるけれど、「吃音のある千夏」としてテレビには出たくありませんでした。
私がしたいことはカフェの店員さんのような、人と接する事なのは間違いないと思います。
でも私が望むのは吃音があっても良いよ、受け入れてあげるよという優しさが時々ある社会ではなく、「注カフェ」っていうものがわざわざあるの変じゃないの?となる社会。
そもそも私はカフェバイトを含むバイトの面接を経験するまで吃音で何かを諦めたことはありません。
親も吃音が理由で諦めなさいということはなかったし、当事者である意識はあまりありませんでした。
偏見に出会った大学時代
ところが、大学に入ってからは吃音であることからできないことが出てきたり、後ろ指を指されたりして、当事者であることを実感。特に二年生になってからは、理解の無い言葉に苦しみました。
徐々に挨拶や名前が言えなくなり、症状の悪化につれて人目を避けて行動するようになっていきました。立ち話や挨拶をしないために知り合いに会わない道を探して学内を移動するようになりました。
その頃投げやりになってネットサーフィンをしていた時に「吃音」「カフェ」と言う単語を打ち込み、見つけたのが「注カフェ」でした。ところが見てみると、気持ちが少しずつ沈み、「なんか違う」という気持ちになりました。
でも何かやってみたいという気持ちは出てきたので、地域のサークルや、学内の短期バイトに挑戦。二年の秋に学内団体に参加した時は普通に意見を言う私に戻りましたし、かなり小規模ですが合唱団体のコンサートの司会もしました。
正直に言うとまだ自分の中の壁や破りたい殻は壊せていません。
でも、違和感を持ったからこそ私は少しずつ動き出せました。
とっても地味な変化ですが、私は注カフェをきっかけに少しずつ以前の自分に戻りました。
勇気がなくて注カフェに参加しなかったわけではないんです。ちゃんと選んでよかったと思います。
【注意】注カフェと吃音がない人を否定したいわけじゃない
ここまで書いたことは吃音がない人の悪口のように見えるかもしれません。
もしくはメディアの悪口にも見えるかもしれません。動画に感動しようと、変な人だと思おうと自由です。感想は感想ですから。
メディアだってすべての面を映し出すことはできません。どうしたってセンセーショナルな印象になってしまうのはメディアの特性上避けられません。
私は理解しようとしている人を否定したいわけじゃないんです。
そういう人がこの文を見たら分かり合いたいのに、当事者になれないのに、どうしたらいいの?と戸惑いますよね。(最後に私がされたら嬉しい対応と気づいてほしいことを書いています。)
私が言いたいのは「表面的に見ないでほしい」「単に感動しておわりにしないで、そこにあった暗い過去や歴史にも目を向けて欲しい」ということなんです。つまりは「理解した気にならないで」ですかね。
知ろうとし続けて欲しいです。
(「本当に真の理解してよ」とまでは言いません。そんなの当事者でも無理です。誰にだって100%正しく理解する事はできないと思っています。)
もう一度言いますが、
注カフェがなければ私は行動できなかったし、吃音が今ほど知られることはなかったと思います。
カミングアウトをした時に「大変だね」「え、話せているじゃん」と言われていたのですが、最近変化を感じます。
「注カフェでやっていたあの症状のこと?」「私も同じ症状があるかも」とそう言われたんです。
そもそも「あれ?おかしいぞ」という違和感を持てたのは当事者ではない人の感想を見られたからなんです。当事者でない人が当事者ではないことを否定する気はありません。でも、単に感動物語として楽しむなら観ない、知らない方がマシです。感動だとか、苦労人だとかそういう受け取り方をするのはマジョリティだからであって、悪い人だからではないはずです。メディアにも悪気はなくて、マジョリティに受けるようにするのがメディア(特にテレビとYouTube)なのだと私は解釈しています。
だから「感動ポルノ」が知られている現代でもまだ感動話にされるんです。
感動するのは自由です。でも感動して理解した気になった人ほど私が恐れるものはありません。感動話にする人は問題を他人事として認識し、個人の問題として押し付けてしまう面があるからです。
注カフェを書籍化した本との出会い
最近注カフェが本になりました。
注文に時間がかかるカフェ たとえば「あ行」が苦手な君に (一般書) | 大平 一枝 |本 | 通販 | Amazon
この本は吃音の当事者ではないエッセイストさんが注カフェを取材して文にまとめたものです。注カフェのポジティブな面、ネガティブな面、という両面、そして吃音のある人の多様性をしっかりと描いています。
この本はあくまでもエッセイストの大平さんが見た世界。別に吃音の理解の正解が書いてあるわけではありません。
しかし私みたいな理解ある環境で育った人のことも、そうではない人もことも、葛藤もしっかり入っています。
丁寧に吃音のことを知るなら私は本の方が良いと思います。
YouTubeより情報を入れるのに時間はかかりますが、じっくりと読んでみて欲しいです。
こんなところで終わります。
それではまた~
追記1 私がされたら嬉しい対応とNGなこと
ここまでの文章から、吃音のある人はめんどくさそうと思われていそうなので私がどうされたら嬉しいのか書いておきます。
私にとって嬉しいのは基本は話し方に関しては放置で、待ってほしいとお願いしたら対話してくれる人ですね。それに対して「待つね」とか、「時間が無いから筆談でもいい?」とかちゃんと向き合ってくれる人。過度に心配した表情を見せずに、会話に支障が出そうな時だけ、疑問をぶつけてくれる人。そういう人は吃音に関する適切な距離が取れているからとっても助かります。症状を軽んじたり(これが結構多い)、真似をしたり、話をしている時に症状を指摘したりするのはNGです。
追記2 私と注カフェ参加者の違い
ここまで読んだ方は私が恵まれてきたこと、注カフェ参加者と異なる境遇に気付いたと思います。実は私は二次障害を持っていないんです。回避という心理症状も重くなった時期は1年程度ありましたが、現在は大分回復しています。
それはあまりに恵まれた環境にいたからです。吃音があるからって何かを諦める必要がなかっただけ。別に私が参加者の方より努力してきたわけじゃないんです。偶然、音読が得意だったり、運よく理解ある担任に出会えたり、そういうことがたくさん積み重なっただけ。注カフェ参加者の多くは社交不安症で、吃音の二次障害が出ています。はっきり動画や記事には書いてはいませんが、二次障害克服のためにやっているイベントだと思います。だけど、そもそもその二次障害を作ったのは誰でしょうか。吃音の無い人たちです。だから私は静かに怒っています。二次障害を作ったのは吃音がない人たちなのに、すごいね、頑張ってんじゃんとだけ言って無意識に上から目線になっている人もいるような気がします。
私が美談にしないでと書いているのはそのためです。そもそも理解ある社会ならこのカフェは要らない。そのことにきちんと気付く人が一人でも増えてくれたらと願っています。