「本気で普通に喋ろうとしても無理なのか」と問われたので私も本気で答える。
こんにちは、千夏です。インスタから寄せられた直接吃音の質問にお答えします。(なお、千夏としてのインスタアカウントはありません。非公開のアカウントです。すみません。)
いつもは吃音について、メモ程度にテキトーに書いています。でも今回は相手が丁寧に読んでくださり、汲み取ってくださることを信じて丁寧に書きます。
まず質問者さんの「普通にしゃべる」の定義が私にはわからないのですが「顔や身体を極端に動かすことなく、なめらかに一定の速度を保って会話をする」という意味だとここでは解釈しますね。
質問者さんが吃音がないと仮定をして吃音がなく、他の障害や特性等もない人の「普通」を基準にしてお話します。
結 論から言うと「工夫をすればある程度はできるけど労力がいるし万能ではないのでいつもできるわけじゃない」が私の答えです。
例えばこれは私の場合なんですけど、スラッシュをひいて、リズムを決めておけばアナウンス原稿や朗読をすることはできます。
他の人の0.75倍くらいの速度なので聞く人が聞けばなんか遅いなと感じるとは思います。でも分かりやすくつっかえてはいないので吃音がある人だとは分からないはずです。
私の場合は伸発と難発と随伴症状というものがあるのでアナウンスならある程度問題なく話しているように見せることはできますが、身体を動かさずにつっかえず伸ばさず一定のリズムで話すことはできないことがあります。「ある程度」とか「できないことが」とか面倒な単語が入っているのには訳があるんです。
工夫をしていても時々難発で言葉が止まってしまうので「ある程度」と書きました。「できないことがある」というのは症状の波がとても激しいため、全くつっかえずに話せる瞬間があるからです。
発表をするときにもこの方法を使ってほとんど吃音の症状を出さずに済むということもありました。ただし私が練習するのはある程度内容を把握し、分かりやすく伝えるためであり、吃音を改善させるために練習をしているわけではありません。発表をする時に緊張しすぎて難発が出続けることもありますし、日によってコンディションが違うので内容を把握していても「普通にしゃべる」ができない日もあります。
ちなみにこの工夫はマックで5種類くらいのメニューを頼む時には活用できましたが、日常会話には使えません。
工夫をして会話をすることはある程度コミュニケーションをとる上で相手のために必要ですし、やっています。でもそればかりやると頭の中が「つっかえないためにどうしていくか」でいっぱいになります。この思いが強くなると吃音がない相手と話すことが怖くなります。もっと思いが強くなるとこの不安が「吃音がある話し方をする自分には話す価値がないんだ」という思いに変化します。さらに進むと社交不安障害やうつ病などの二次障害が出る可能性があります。
「本気」をだせば「普通」には近づけますが、それをしすぎると今度は身体や心がボロボロになることもあります。身体や心が「普通」にとらわれて話し方にがんじがらめになってそれでも「普通」の話し方を守り続けることって「普通」でしょうか。私はノイローゼ気味になってしまうと思いますし、実際そういう状態に陥ったこともあります。
そのため私は普段症状を出しながら会話をします。そうすることで話す内容に集中しています。
「普通」にしゃべれる工夫とそれをどの程度使うかについての話はこれで終わりにしますね。
この疑問をくださった人と同じくこの疑問を持っている人に伝えたいことがいくつかあるんです。
①普通はそれぞれ違う。
質問者さんは「普通にしゃべる」ということを質問に書いてくれました。私は吃音がありますがその話し方は私にとっての普通です。「普通に話せる」と言ったときどうしても吃音がない人の基準になってしまっていますよね。でも私にとっては言葉がつっかえていても、のびていても、時間がかかっても、膝をたたきながらになってもそれが普通なんです。それを知ってほしかったんですよね。
②吃音を出して話している人も本気でしゃべっている。
質問者さんは「本気で話せば吃音の症状がどうにかできるのではないか」と聞いたのだと思います。悪気はないのだと思うのですが、症状を出していても本気で話しているんです。
症状がない方が本当にその話し方になるものなの?と思うのは当然だと思います。自分にはなくて体験していないものを疑うのはおかしなことではありません。でもそれによって話し方が違うと「ふざけている」「緊張しすぎている」「変」というのはやっぱり自分にはないからなんです。そういう人もいるということはどうぞ知っておいてください。
※なお筆談やジェスチャーを使ってお話する方もいますがどんな手段であれ、言葉を届けることは本気で相手と向き合いたいという思いの表れだと思うんです。いずれにしろコミュニケーションを取ろうとする行為は本気です。
③知らないことは悪いことではない。
質問者さんは前置きをつけて質問をしてくださいました。多分「こういう質問をしたら悪いかな?」という良心があったのだと思います。私は今回質問者さんの質問に引っかかるところを突いて話をしてしまいました。だから知らないことで吃音のある私を傷つけたと思うかもしれません。私も(おそらく)吃音のない質問者さんのことを傷つけていないか不安です。
でも私は知らない事自体は悪いとは思いません。知らないのに知ったふりをするのが1番ダメだと思うんです。どうか知らなかった自分を責めずに、吃音のある人のことも責めずに、そういう世界もあるんだ、こういう考えを持った人がいるんだと知ってください。
☆いつも見てくださる皆様へ
今回は番外編をお届けしました。内々っぽい内容もあって分かりにくかったと思いますが、覚悟を持ってお届けしました。
私は吃音を受け入れ楽しく生活をしていますが、それでも周りと違うゆえの勘違いには日々恐怖を抱いています。
私には吃音を知ってほしいという思いがあります。それは当事者はもちろん、吃音のない人が傷つかないためなんです。
中学時代、吃音を真似されたのを機に吃音を知らない子に説明してほしいと担任の先生に頼んだことがあります。吃音を知ればお互いに勘違いを減らし、楽しく過ごせるとおもったんです。
すると、先生は吃音の説明をしたあと吃音を知らない子を執拗に責めたんです。何をしていても彼女の良いところは評価されずなぜか責めてしまうということが続きました。彼女との溝は深まったままこの件はうやむやになりました。
今は吃音が知られて徐々に「吃音と共存する」ということがスタンダードになりつつあります。でも吃音がない人の戸惑いや吃音を受け入れられない当事者の思いはあまり重んじられない傾向にあります。
そこで吃音がない人の疑問に答えたくてこの記事を作成しました。
それではまた〜。
発信理由はこちらでも言っています。この日は吃音の調子が良かったのであんまり連発は出てないかも。(伸発はリラックスした時や興奮した時に出るので私にとってはレアな症状です笑
録音する時はほぼありません。)