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声のコンプレックスが覆る時【共同マガジン万華鏡】
こんにちは、千夏です。
今回は共同マガジン用に声をテーマにしたエッセイをお送りします。
「うわー声たっかーー!」
これは私が初めて聞いた、私の声に対する評価である。
相手は少しのけぞるような姿勢で本当に驚いていた。
「こんにちはー↑!はじめまして↑!」
やたら高い声を張って挨拶をしたのだから当然だったのかもしれない。場所は習い事に行っていたとある部屋、私の年齢は小学校中学年だ。見学希望者から晴れて生徒になった時かけられた言葉だった。
驚きと興奮でいっぱいになった私はその評価に「そーお↑?」と返した。
この声自体が結構高かったと記憶している。
ちなみに驚いた人とはその後3年ほど仲間として過ごすことになる。私より少し年上で低めの声だった。面倒見が良く、年上の兄弟がいない私にとっては頼れるお姉さんのような存在だった。
その日以来、私は低い声に憧れるようになった。
ハスキーで高音の人は少ない(イメージがある)からハスキーの人にも少し憧れている。
この後も私は自分の声を恨むような出来事を多く経験した。
高い声を先生に真似される。変な声だとささやかれる。
声が通るせいでひそひそ話ができない。音楽劇の動画を家族に繰り返しいじられる。
声が通るので、発表や朗読には便利だった。覚えてもらいやすいし、募金活動や挨拶当番でも声をつぶしたことはない。だがただでさえ童顔なのに、声で子供っぽく見られてしまうこともよくあった。高い声は総じてマイナスポイントである。
声変わりが起きないことを知った日にはひどく落胆した。思春期にはわざと声が通らない話し方をしていたこともあった。女性として生まれたのだから、もちろん仕方ないのだけれど、当時はすごくショックだった。
過去形になっていることから分かる通り、今の私は自分の声がそんなに嫌いではない。
考えが変わったのは3年ほど前からだ。
声が高くても魅力的な「良い声」の女優さんは数え切れないくらいいることに気付いた。
それによくよく聴いてみると自分の声はそんなに高い声でもない。
低くはないが、特別高くもない。「やや高い」程度である。
今思えば初めて「声が高い」と言われた年が高さのピークだったような気もする。
今年になってからテレビで、高い声の素敵な人を新たにふたり見つけた。
一人は女優の福原遥さんだ。
インタビューで声にコンプレックスがあった、と公言している。彼女はかわいらしいが、それゆえにぶりっ子っぽく見られるのは納得してしまう。最近はトーンを低く落として現在はミステリアスな役でドラマの主演を務めている。声自体ではなくトーンならたしかに変えられるということにも気づく。女優さんならなおさら得意分野だろう。
低い声の人でもトーンは変えられる。でも、元の声が高くないと魅惑的でミステリアスなあの声にはならないかもしれない。
もう一人は佐野夢果さんだ。
https://imidas.jp/jijikaitai/l-40-307-24-07-g949
彼女は一般の高校生だが、「阿佐ヶ谷アパートメント」(以下「阿佐ヶ谷~」と表記)という番組に3度出演している。車いすユーザーで様々なイベント企画や活動をしている活動家でもある。
私は「阿佐ヶ谷~」の彼女のリアクションに惹きつけられた。とにかくリアクションが良い。コメント力がある。
フィラー(えっと、えー、あー等ことばの前につける言葉)が少ない。これらは声とは関係ないように思われるかもしれないが、実はある。高くて通る彼女の声で発せられることで、より楽しそうに生き生きと聞こえるのだ。
端的に表現するのが得意な彼女だから、声は高くても幼くは見えない。
童顔だが、話すことでむしろ大人っぽくしっかりとした印象を受ける。
顔と違って声はトーンで変えられる。他の要素と相まって魅力に変えることもできる。逆にいえば他の要素によって魅力を下げてしまうこともある、そんな繊細なものだと私は思う。ということは高低に関わらず他の要素にも磨きをかけることが声を良くするのかもしれない。
声「だけ」にこだわるなよ、と小学生の頃の私に言ってやりたい。