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吃音って個性?

吃音って個性だと思いますか?

吃音を持っている方は、
自分の吃音=個性と言われてどんな風に感じるんだろう。

・個性と言われると安心する?
・前向きな気持ちになれる?
・大切なものとして捉えられるようになる?
・自信がつく?

個性って思うと、しっくりくる人もいるかもしれないけど、私は、、。

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まあ個性だろうが障害だろうが、特性だろうが、
それがどんなくくりが正解であっても、どう考えようが、
私の吃音に何の影響もないかもしれないけど、
テレビとかSNSで吃音は個性って言っているのを見るとなんだか、
心がぞわぞわするんです。なんだかしっくりこない。
しっくりこないというか正直言うとなんだか嫌な感じがする。

これはずっと思っていたこと。

でも、「吃音は個性だ」って思っている人がいるのに、
自分の思っていることを言うと、その方たちを否定しているようで、
なんだか言うもんじゃないと思ってた。
自分の心の中で思っていることを、表に出すってやっぱり怖い。

でも、「吃音は個性だ」って表に出て広まっていくのはなんだか不本意なところがある。私はそう思っていないのに、黙っていたら「吃音は個性」として広まっていってしまいそうで、今の私はそれは嫌だから。

個性って言うと、吃音をみんなが完全に受け入れて、辛いことがあっても、「まあしょうがない、これが私の個性だもん」ってみんながそれほど思い悩んでいなくて、今のままの社会でも、明るくなんとか生きていけるって考えられてしまうようで。吃音症の方たちが抱えているモヤモヤが薄くなってしまうような気がして。

          ✎ܚ✎        ܚ

個性って思う人を否定したいわけじゃなくて、私はこう思っているよ、
吃音を個性って思っている人ばっかりじゃないよ、
個性って思いたくない人もいるんだよ、
っていうことをここに残しておきたいと思います。
あくまで地球上80億人のうちの私一人の意見です🌎

          ✎ܚ✎        ܚ

そもそも、
吃音を聞こえの言い「個性」という2文字に当てはめる意味あるのかな?
って思います。

どうしてわざわざ、
障害として「吃音」という名称があるのに、言い換えるんだろうって。
辛さを抱えやすいものを、無理やり、前向きな言い換えをしているように感じてしまいます。

辛いものは辛い!
今の社会のままではまだ生きづらい!
だから障害のままで捉えさせて!

って私は思います。

今は多様性の時代なんて言うけど、
それはそれぞれの違いをただそのまま認めて共存していけばいいだけの話で、なんでも個性っていえば言いわけじゃないと思うんです。
個性って言ってしまうと、そこで問題が解決したように感じてしまって、生きづらさを抱えている人の心の部分が置いてけぼりになっちゃう気がして、私はなんだか悲しいです。

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個性についてぐるぐる考えていたら、
【個性ってみんな言うけど、個性ってなによ?(笑)】
っていうところに行き着いて。

個性って、どっちかっていうと、
プラス面、ポジティブな要素で使うことが多くないですか?

「描く絵が繊細」
「着ている服が唯一無二」
「いつも周りの意見に左右されない」
「あのアイドルのことになると話が止まらない」
「話をいつもちゃんと聞いてくれる」

とか。

自分では当たり前にできて意識していない事を「あなたの個性だよ!」
って言ってもらえたら、
自分の良い所としてとらえ直しができると思うけど、

「落ち込みやすい」
「泣き虫」
「怒りやすい」
「遅刻しやすい」
「恥ずかしがり屋」
「運動ができない」
とか、
一般的にすごく良いとされはしないことを日常会話で
個性とは言わない気がします。

吃音を個性っていうなら、
=この社会で吃音があっても大丈夫ってことで、
それなら、
もっと吃音があっても生きやすい社会にしてほしいです。

Xを見ていても、「辛い」「吃音なんてなければ」って思っている人がたくさんいるから、私は個性なんかじゃなくて、
この社会ではまだ生きづらいから、これからもっと皆にとって生きやすい社会になったらいいっていう思いも込めて「障害」って捉えたいと思っています。

「個性」って捉える方がいるのは全然問題なくて、
だた、まだ吃音を受け入れられないでいる人に、
吃音は個性だという考え方しかないのは、
辛い所があって、違和感があるような気がするのです。

吃音を個性って言われてしまったら、じゃあこの辛さはどうしたらいいの?こんなに辛いって思っているのは私の考え方がおかしいのかな?
って自分を責めることにもなると思います。

だからある意味、障害であると思うことで、
自分の出来なさを「しょうがない」っていったん障害のせいにできるのも心の安定に繋がることがあるような気がします。
吃音であることは自分は何も悪くないからね。

でもだからと言って、ちょっと頑張ればできるようなことまで、
「障害だから」「吃音だから」って努力もなにもしないで、
なんでもかんでも障害のせいになるのはよくなくて。
出来る範囲で努力をして、それでもできないところ、辛い所は、
障害の名前を出して説明して手伝ってもらえばいいと思うんです。

助けてもらったら、自分の得意なところ出来るところで今度はその人を助けていけばいい。
障害のあるなしに関わらず、誰しも得意不得意、好き嫌いがあって、
みんな凸凹なんだから、支えあって生きていけばいいんじゃないかなって思うんです。

私は今のところ、自分の言いにくさ=吃音を「障害」って捉えています。
私の中に「吃音という言葉の出にくい障害がある」という「ただそれだけ」という感じです。
別に「良い」とも「悪い」とも、「長所」だとも「欠点」だとも思っていません。

「髪がくせっ毛」「おしゃべりが好き」それとおんなじくらいの意識です。
でもやっぱり障害だから辛いことも多々あって、最悪だと思うこともあるけど、でももう吃音は私の一部で変えられないものだから、しょうがないって考えて、その都度、向き合って悩んで成長して進んでいくしかないか^^
ってそんな風に考えています。

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吃音だけじゃなくて、多くの人が持っていて悩みやすいことであろう、
「落ち込みやすいこと」とか
「人と比較してしまう」とか
「0、100思考」とかも、
→(全部私だけど笑)

「個性だ」とかって無理に受け入れようとしなくても、
「悪い部分」だとかって悪く自分を責めなくても、
意識すればするほど考えちゃうから、

「ただ自分はそういう傾向がある」ただそれだけって考えて、それも含めてもう自分だから、
「あーあー、また人と比較しちゃったなー」
「あーまた落ち込み期は入っちゃってるー」くらいに、
自然に感情の波に乗っていると、いい意味で深く考えることがなくなって、今はそういう気分なんだねって自分まるごとうまく受け入れることができるようになるのかもしれません。

「落ち込みやすいこと」とか
「人と比較してしまう」とか
「0、100思考」とかも、全部自分で、きっと無理に直す必要なんかない。そういう思考を持っているからあなただからこそ、人に優しくできたり、誰かに寄り添えることがって、その人にしかない良い所って言うのは作られているんだと思っています。

落ち込んだ時も、「今の自分はそうなんだね、よしよし」って認めてあげられるようになると、きっと知らないうちに、自分という輪郭がはっきりしてきて、落ち込みもすべて自分の中では意味のあるものとして考えられるようになっていくし、本来自分の中にあるものに、良いも悪いもない、そういうもんなんだと思う。

いろんなことを経験して、きっと考えも変わっていくけれど、
今の頭の中にある思いを文字にできてよかったです。

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そういえばこの前ね、コンビニでホットスナック自分で頼んで買えました!
→え?当たり前のことだって?
そうですよねー私もう大人なのにね(笑)

買いたくても言葉が出てこなくて諦めることが多いけど、
その日は調子が良かったのかできそうな気がして、
コメント欄でおすすめのホットスナック聞いた際に人気だった
ソーセージを初購入!!
超おいしかったです。教えて下さりありがとうございます。
一人で買えることが私にとっては当たり前でないので、
それだけで本当に嬉しかったです。。

1人で言って買えた記念!

 

田舎の家の一室からお送りする独り言でした。

ちな



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