洛陽動乱 元治元年6月5日(1864年7月8日)
「どう思う、歳さん。
俺は古高は本当のことを言っていないような気がする。」
「勇さん。 いや、本当かどうかは、後で考えれば良い。
とりあえず、京都は守る。 祇園祭には全隊士で巡察すべきだろう。」
「源さん、出動できる隊士は何人ぐらいいるかな?」
「腹下しや、風邪などで寝込んでいる隊士も多く、52~53名だな。」
「そんなに少ないのか。」
「どうする、歳さん。」
「そうだな、四つに隊士を分けて、いつもの巡察で回る場所に
それぞれ振り分けて、発見したら番小屋を通して連絡し、
駆けつけると言うのはどうだい。」
「土方さん、それだと屯所が空になりますよ。」
「そうか、総司の言うとおりだな。 山南さん、すまんが数名を選抜して、
屯所を守り、松平様への連絡係もしてくれないか。」
「いいですよ。 沖田君の言う通り、屯所を空にするわけにもいかないし、
何かあったら、松平様に連絡する必要もありますしね。」
暮れ七つ、屯所に残る隊士以外は、巡察の装備を整え、中庭に集合する。
「諸君、静かに。 局長より、話があるのでよく聞くように。」
「諸君、本日、枡屋の主人をとらえたところ、動乱の兆候ありとわかり、
残りの志士を捕縛するべく、これより新選組の全勢力を持って、
京都の巡察に向かう。
いつもの巡察以上に、念入りに、旅籠や問屋などを
重点的に巡察すること。」
近藤局長は、御所の東、北から南へ、土方副長は御所の西から東へ、
井上組長は南から御所を目指し北上し、斎藤・原田組長は北から、
御所へ南下する。
土方副長がてきぱきと指示を出して、
「山南さん、悪いが留守を頼む。」
「おぉ、任しとけ。」
この日、新選組の重傷者四名、後に死亡した者が三名。
志士の闘死者七名、自刃六名、捕縛二十数名。
志士には志士として、命をかける意味があり、
新選組には新選組として、命をかける意味がある。
その意味を「正義」言うのなら、世の中には相対的な正義しかない。
と言う記事の紹介。
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これは勝手な思い込みで、かつ、ももまろさんの記事の紹介でもあります。 主人公に似た名前の人もフィクションです。
実在の人物や団体などとは関係ありません。
あくまで、思い込みですので事実と誤認しないようにお願いいたします。
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